第12回 寿原一族

2020年11月28日

明治28年ころの弥平次、重太郎、猪之吉の寿原3兄弟(右から)=スハラ商事百年史から

♦金曇大火がきっかけ

 東南アを中心に世界中に強力な経済ネットワークを張り巡らす華僑になぞらえた「樽僑」という言葉は今では死語になっているようだが、これは戦後‶斜陽都市〟の代名詞みたいにされた小樽から、札幌を重点に道内各地に打って出た小樽商人のエネルギーへの畏敬の念からの造語だった。

 「あくまで小樽の寿原」を自負している寿原一族の軌跡を見ると、樽僑第一号の名に恥じない。昭和49年個人所得税の全道一位は板谷宮吉、二位は寿原外吉の4億3800万円だった。外吉は昭和9年に議員になり、戦中の商工経済会時代は支会参与、21年9月から副頭取を9年、続いて4期10年の会頭と、小樽商工会議所との縁は格別に深い。

 外吉会長のスハラ商事は昭和56年に百年史を出している。富山県砺波郡福岡町の菅笠販売商だった寿原弥平次が、明治14年5月の小樽金曇町大火を聞いたのが行商先の秋田の宿。「商売物の茣蓙と瀬戸物が売れる」と、早速やってきて有幌海岸に店を開く。

 福岡町は万葉歌人大伴家持開基と伝えられる、歴史ある古い小谷部川沿いの市場町。川沿いの湿田に菅を植えて菅笠を造り、当時の全国生産の6割を占め、茣蓙、莚に瀬戸物を扱う寿原家は町一番の老舗だったという。

♦三本の矢を実行

 西南戦争による紙幣インフレと凶作による貸し倒れに米騒動が加わり、不況からの根本的な脱却に迫られていたのが小樽進出の理由だった。最初は一に丸三つ‶イチ三つ星〟萩屋の共同経営だったが、一年で独立した時から丸は一つの‶イチマル〟の屋号を使う。イチマルはなんでも一番の気持ちと、何事にも満ち足りるの意味を込めたものだという。

 600戸を焼いた火事をきっかけに来た小樽で、17年の有幌、18年に港町、20年には入舟と、新店舗を構える先々で火事に見舞われる。大半の商人はこの辺でへこたれてしまうが、弥平次は毛利元就の「三本の矢」の古事にならい、まず妹婿の砂土居猪之吉を呼び寄せ、次に弟の重太郎と寿原三兄弟による、後の小樽財閥寿原一族の濫觴ともいうべき身内で固めた共同経営を28年1月に始める。

♦超インテリの新知識

 重太郎は石川県立専門学校法学科から東京高商一期生としてイタリア語を学び、横浜デル・オーロ商会の通訳兼書記になってワイン、コーヒーなどの輸入業務をしていた新知識の持ち主。学資を出してくれた兄に呼ばれた。

 横浜→函館→と船でやってきた小樽は、日清戦争直後の好況に沸いていた。会社組織を新式帳簿で運営する狙いもあったが、ともあれ、加越能開耕社の創立事務所支配人として幌内原野に赴く。弥平次ら4人が代表者になって旧加賀藩の在樽有志が集まり、幌内原野500万坪を開墾しようとした株式会社。重太郎は一年足らずで小樽に戻ったが、40年の同社解散時まで役員を勤め、一族の財産になった寿原農場に続けている。

 幌内原野は二つの川に挟まれ、土地は肥えていても毎年のように水害に見舞われ、泥炭地なので道路を作れず、食料品などは舟で運ぶような不便な土地だった。横浜時代の友人から「外国に比べて北海道の土地は恐ろしいほど安いから、将来必ず得する」といわれた重太郎は、早くから土地に関心を持ち、日清戦争後の小樽をはじめ、師団ブーム前の名寄市街地払下げなど将来性の判断力に長け、土地売買で一門の財政を支えた。

♦一族の分業化

 合名会社イチマル寿原商店は和紙綴りの大福帳から罫引き洋氏の洋数字簿記に変え、巻きタバコ・口紅・罐詰といった舶来品を並べ小樽のモダン化を進めた。開業資金は弥平次7300円、猪之吉6300円、重太郎1000円。31年正月に三年刊の純益を分配し、それぞれが独立する。

 寿原本家の商売と重ならないよう、猪之吉はスハラ産業・寿原薬粧の始祖となり、長男の英太郎は小樽市長になった。重太郎は寿原食品の前身、小樽市場会社を40年に始める。市場会社がお荷物になった鮮魚部分をやめる大正14年に、長女の婿村山美喜生が専務に。一方、重太郎の長男は東大医学部を卒業、脳波分析学の泰斗として中央で活躍した。

♦寿原の活躍

 弥平次の姉の孫が戦後に小樽選出の国会議員になった寿原正一。弥平次の娘婿島田純一郎は民政党を応援、政治嫌いの弥平次と合わず。英太郎の娘婿が北洋相銀初代社長の九郎、スハラ産業・薬粧の流れに。スハラ食品は村山祐社長、喜一専務の時代に移る。

 このように系図をたどっていくと娘婿が目立つ。‶寿原は養子で栄えた〟ともいわれる所以だが、一族の発祥地の富山では後継者がいても養子をとるのが慣習になっているので、母村の風習通りにやっているだけなのかもしれない。

 小樽経済の隆盛期に寿原の名を挙げたのが重太郎。「アイディアは良かったが、商売は弥平次・猪之吉・英太郎・外吉に負ける」といわれながら、‶小樽の渋沢翁〟のニックネーム通り、新会社発足人に名を連ねること十数社。老いても青雲の志を忘れず、常に前向きに物事に取り組んでいた。

♦北洋銀の創設者

 重太郎は5尺に満たない小兵ながら、外国語を操る超インテリ。新鋭実業家代表として地方政界に登場したのが、明治32年の手宮埋立地の北炭払下問題。政治団体は茶話会に属し、その年の第一回区会選挙から区議、道議と続く。色内町の実業家を中心にした小樽実業会を地盤に、大正元年に政友会から衆院選に立ち、9年から政友会公認の道議を3期勤める。故郷の小谷部川にちなんで俳号を矢水とする風流人でもあった。

 スハラ食品前身の小樽市場会社、北洋銀に成長した小樽無尽会社と重太郎が創設した組織は大きく伸びている。

 スハラ商事が札幌出張所をつくった昭和29年当時の札幌の人口は30万人。翌年周辺3町合併で41万、札幌市の爆発的膨張が始まる。 

 進出当時の札幌で同業の問屋は池内・今井ぐらい。「小樽は問屋が威張っているが、札幌の小売りは上座に座る」と、戦後流通革命の兆しを早くも悟り、小売りサービスに重点を移す。

 外吉社長が札幌証券取引所の二代目理事長になったのは設立の翌26年。3代目の今井道雄のバトンタッチするまで14年間も続ける。ほかに北海道硝子卸商業協組理事長から全国板硝子卸商連合会の副会長と、本業を支える仕事にも精を出す。

 国内最大メーカーの旭硝子との結び付きが、建築材料として急増するガラス販売に力を発揮した。三菱系統外で最大の株主であり、底値買いしたのが昭和8年…。

 小樽商人が札幌になだれ込んだのは34~35年。スハラの札幌支店昇格が38年。3年前既に小樽本店よりも札幌出張所の売上の方が上回っていた。

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢

 

『う~ん、弥平司と弥平次は同一人?』