第6回 戦争と港

2020年09月04日

観光客でにぎわう石原裕次郎記念館

 今年は日清戦争勃発百年に当たる。…‶窓をあければ港が見える〟と歌われるミナトの情緒がみなぎる小樽は、海から生まれ、海と共に育ち、海に生きる星の下に生活している。……小樽開基百年記念式典の前年に当たる昭和39年4月、北海道新聞の年間企画『都市を診断する』第四回目、「小樽」の書き出し部分である。

 学芸部記者として、道都市学会の学者先生たちと道内各市を回っていた。成果は、41年に東京・誠信書房から「都市診断北海道編」として出版された。

 小樽は城のない城下町である。この城下町には殿様が何人もいる。道内都市には中世がない。そこには古いたたずまいを思わせる城下町ふんいきは生まれないが…と、次のように続く。

 樺太、函館、東京、根室への定期航路は明治六年に開かれ、八年の入港船は、六六六隻だったのが、十三年には五三五八隻と十倍になり、大正十二年の入港船は神戸、横浜、下関、門司に次いで全国第五位。関門連絡船を除けば神戸と横浜に肩を並べる日本の三大港の一つになっていた。…

 港を道内と本州との関連で見たのが、表①の五港府県貨物移出入額である。本州との関係では、入口に当たる函館が断然有利な事は言うまでもない。明治14年までに十倍近く増え、全道の六割をしめ590万円の移入超過になっている。この時代の本州商品は、一度函館に入ってから道内各地に運ばれた。函館は名実ともに北海道の玄関口であり、全道が後背地、商圏になっていた。

 平地が少ない小樽が商人のまちになるにはどうしても港が必要だった。天然の良港だちしても、北西の風は石狩湾からストレートに吹き付ける。明治26年冬の嵐は湾内に大被害を出した。英・蘭の外国技術者からの設計案なども出たが、日清戦争で先送りされ、道庁予算がつき、北防波堤工事が始まったのは30年5月だった。

 当時東洋ではスリランカのコロンボだけ、と言われた波の激しい湾内での築港は難工事続き続き。31年12月の大時化に見舞われ失敗かと思われたが、日本初の火山灰混入コンクリート使用など新技術の導入もあってどうやら完成する。

 最大の工事だった北防波堤が年ごとにジワジワと海中に伸びていく様子は小樽そのものの成長を示しているようだった。=表②.1300mの防波堤の完成に十一年間で172.5万円もかけているから、m当たり千三百円以上。付帯工事を含めて221万円もの税金を使っている。

 日清戦争が小樽港に与えた滋は、和船から汽船への激増ぶりによく表われている=表③.32年になると、遂に函館を追い越してしまう。20年の移出入額が149万円で全道の12.2%だったが、30年には3864万円、48.8%と名実共に北海道随一の港になっている。

 

 こうした状勢の中で会議所の活動は、日本郵船会社の定期船問題によく表われている。33年刊の月報10号によると、同年六月に開かれた第六回総会は、日本郵船会社の定期東回り線の航海回数増加を会社だけでなく、函館・仙台両会働き掛けることを決議している。

 明治18年以降、多い年は十数隻で年間130~187回も運航しており、昨年は9隻130回、月13~17回の実績がありながら、この七月から2隻を減船し月10回にするとの会社措置には承服出来ない。この東回り神戸・小樽線は内国航路の大幹線で国内商業の大動脈、しかも北海道拓殖事業に最密接な関係があるから、昨年11月の定期航路保護期限満了後も航海度数を減じないよう、政府に建議し、衆・貴両院に請願していたと、定期船の効用について次のように述べる。 

 時間的に正確な定期船は、旅客だけでなく書信、貨物の集散に秩序を与え、当業者は日時を予定して仕事ができるから損害を予防し、需要と供給の均衡、物価の平準を図れる。これに対して、貨物の堆積で動く臨時便には商業上の秩序を保つ能力なく、地積狭く、倉庫・物置が不完全な小樽では船目当てに集荷する出来秋の農産物などは目も当てられなくなる。

 交通の枢軸たる定期船だから、国家経済上に不利益な結果をもたらさないよう、拓殖上からも多々、益々多きを望む…と結ぶ。

 20年11月に、逓信省が定期航路の運航を命令する変わりに年額88万円を日本郵船に下付した制度は、冬になると運賃が高騰しながら赤字で欠航してしまうような離島航路などには有効だった。翌21年には小樽―増毛間に月5回、貨客船矯龍(ケプロン)丸を運行するため年額1500円の補助を郵船会社に出している。

 船が大量輸送機関として時代の脚光をあびてくれば、小樽商人が黙っているはずがない。22年7月に藤山要吉と麻里英三らが地元資本5万円を集めて天塩北見運輸会社を設立。新造船を注文し、一航海150円の政府補助を得てオホーツク沿岸と小樽を結ぶ海上ルートを目指した。当初増毛に置かれた本社は24年に小樽港堺町に移り、3隻目を発注するほどだったが、30年には早くも2隻を売却、残り1隻は沈没して会社は倒産した。経営不振の原因は天候不順だとされているが…。

 日本最大の海運会社、三菱財閥系の日本郵船は健在で、25年には横浜―函館航路と、神戸起点横浜経由の東回り線に下関・新潟経由の西回り線いずれも小樽まで延長されている。

 旧日本郵船小樽支店の建物は明治39年に完成したルネサンス様式の石造建築で、国の重要文化財に指定され、現在も健在。「小樽運河とその周辺地区環境整備計画」による公園化計画が進む。小樽観光の新ポイント「裕次郎記念館」もまた、日本郵船絡みであることはあまりにも有名だ。

 26年10月に室蘭-青森航路が、青森―函館―室蘭の三角航路になり、小樽からの人や貨物は室蘭経由に移る。 こうした海の道と同時に、地上の鉄道レールも小樽に集まって来る。上野-青森間が24年、25年になって室蘭-岩見沢が結ばれ、函館―小樽間の函樽鉄道は31年から測量が始まり、日露戦争寸前の37年9月に完成している。函樽鉄道で沿線の商品農産物の六割が小樽商人の手に入ったと云われた。

 大陸に目を向けた明治日本は、国威発揚を軍備拡張に求めていたから、戦争の度に国内経済は様変わりした。そして小樽商業もまたその範疇のなかで成長し続けていた。

 

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢