第7回 函館との比較

2020年09月09日

日銀支店は小樽観光のワンポイント

♦他山の石として

 道内の都市のなかで小樽と一番似ているのは函館だろう。同じ港町の商業都市というだけでなく、成り立ちや構成、問題点、課題などかなりな共通点が見られる。「他山の石」ともいう。改めて函館を眺めてみることが、小樽の将来を探ることにもなるだろう。

 前回「小樽は城のない城下町である。この城下町には殿様が何人もいる」と書いた。同じ『都市診断』で、函館についてこんな風に描写した。「函館はやせたりといえども一城のあるじである。宗家札幌より由緒ある家格を保持し、目は常に海峡を越え南に向いている。ハイカラな一面、古くさいものに執着する旧華族みたいな風格がある。かとおもうと、‶浜気質〟と呼ばれる大ざっぱな一面も持つ」と続く。

 そして、「函館はモダンというより、ハイカラだ。札幌の近代性と違った匂いがある。明治・大正期の近代化が底流に残り、その上を戦後の近代化がかすめた感じ」だと、鉄板の尾錠がついたアケビ細工のバスケットを持ち、イタリアンカットのハイヒールをはいた中年すぎの婦人みたい…と、その容姿をスケッチしてみた。

♦年上の姉さん

 こうした姿は、さしずめ年上の姉さん。よく似た姉妹の感じなのだ。気品の高いお姉さんは、多分婚き遅れたに違いない。文学の面では、札幌のピューリタニズムに対して、函館のロマンティシズムに対して、小樽にはリアリズムがある…という。小樽リアリズムは、小林多喜二と伊藤整に代表される。 

 函館との最大の共通点は、港を軸にした商業が街づくりの基本だったことであろう。日本海航路の北前船が運ぶ荷物に始まり、蝦夷地改め北海道の海産物を集散し、本州方面からの商品を移入する玄関口だった。幕末の安政三(一八五六)年の函館は戸数二千、人口一万。維新直前の元治元(一八六四)年で四千二百戸、一万九千人に達していた。

 小樽は市街地ができ始め村並の「穂足内村」になった慶応元年の前年が元治元年。小樽が誕生した時には、函館は既にいっぱしの娘盛りを迎えていた。

♦大火と日銀支店

 明治期における人口比の火事発生件数全国一位が函館、二位は小樽だった。凾館と小樽の百戸以上焼けた大火が表①小樽の最大は明治37年の2481戸日露戦争での遼陽大会戦の勝利を祝う提灯行列の比から商品取引所近くが出火、稲穂・色内・手宮地区を総なめした。

 松前時代に本州方面への玄関口だった函館を、小樽が追いつき追いこしたことを如実に示したのが日銀支店。昭和60年に市の保存対象歴史的建造物に指定されている日本銀行小樽支店が、色内町一丁目のメーン道路に面し厳然と立ち観光客の標的になっている。

 明治42年起工、45年完成の建物は一見して石造風だが、実はレンガ造り。モルタルで石造り風に表面を仕上げたルネサンス風・パラディオ様式とか。赤レンガの東京駅を設計した辰野金吾の作品。

 銅板屋根のドームが描く曲線が魅力的で、異国情緒をもたらし格好な画材だ、と好評な半面、「日本郵船と共に大家の駄作」とこきおろす画家もいる(千葉七郎「小樽の建物」)

♦函館と逆転

 日銀は明治26年4月に札幌・函館・根室・室蘭の4出張所と同時に小樽派出所を設ける。28年7月函館出張所は支店に昇格し、小樽派出所を所管する。この時点では全国的に見れば、小樽は札幌より函館の配下に於いた方が適当だと考えられていたことになる。

 30年になって、小樽派出所が国庫・公債に為替の銀行手形再割引の業務を始め、12月に出張所に昇格する。そして十年後の40年に至ると、小樽出張所が支店になるのと引き換えに、函館支店が出張所に格下げになり、函館と小樽の関係が逆転している。

 小樽支店の新築は、当時の状況を極めて現金に反映しており、日露戦争後の小樽経済の大躍進ぶりが日銀本店の予想をはるかに越えたものだったことを物語る。

 北海道経済の中心が函館から小樽に移り、さらに北の札幌に異動するのは統制経済が強まる太平洋戦争になってから。全道を統括する札幌支店開設は昭和17年で、つい最近までは小樽が名実共に北海道の経済的な中心だったことを、日銀支店の建物が語りかける。

♦内陸農業に目を向ける

 函館は中国向け海産物を主体にコンブや硫黄・石炭などを輸出していた。これに対し小樽は玉葱・リンゴといった農産物輸出に力を入れ、横浜・神戸に次ぐ全国三位の輸出港になっていた。道産米百万石収穫祝賀会が催された大正10年の銀行預金・貸出状況が表②.

 道庁がある札幌と、躍進めざましい小樽、老舗の函館の3市の比較である。銀行の数は小樽19、函館16に対して札幌は10と少ない。預金號額に占める官公庁預金の比率がオタル3%、函館6%なのに札幌が16%と高いのは道庁のお蔭。定期預金、手形貸付は小樽が断トツなのは、それだけ商業金融が盛んな証拠だ。預金規模から見れば、小樽は札幌の一.五倍、ゆとりを反映する手形貸付が三倍になっている。

 姿をみせなくなったニシンはあきらめ、開発が進む内陸部の農業に目を向けた小樽商人は、農産物を担保にした銀行貸付と荷為替を努めて利用した。商人自らが農場を積極的に経営し、地主として活動する際にも不動産担保の金融が大いに利用され、ますます銀行の活動範囲が広がった。

 利に聡い銀行が全国から小樽に集まった。20にも及ぶ銀行の本支店が軒を並べる様子が、世界の金融中心地もかくやと思わせたから、「北海道のウォール街」なんていう異名が付けられた。

 当時の世界経済はまだ英国が中心だったのに、ロンドンの商業中心地シティではなく、新興めざましい米国・ニューヨークを思い浮かべ、ウォール街としたセンスにも新しい物好きの小樽っ子気質が読み取れる。

 斜陽都市といわれた時代は去った。大きいことが良かったのも過去。似たような問題を抱えて悩んでいる函館と姉妹感情で、手を取り合ってみるのも小樽の一つの道かもしれない。

 

~会議所の百年・小樽商人の軌跡 

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢