第9回 地主商人

2020年10月10日

用意周到な小樽商人の倉庫が生まれ変わった海猫屋

♦「不在地主の」モデル

 JR小樽駅前から海側へ。船見通りを運河までの坂道を下りて行く途中に、パブ海猫屋がある。交差点に面して駐車場になっている空地の向こうに、赤レンガに緑の蔦が対照的な建物がいかにも今の小樽に似合う。

 店の入口脇の看板に「小林多喜二の小説『不在地主』のモデルとなった磯野商店が倉庫として建てたもので、当時、一階は佐渡味噌、二階にワラジやムシロ、三階には家財道具が格納されていた」といった説明がされている。

二重レンガ積みの壁、針金で一枚ずつ瓦を固定した屋根など、北国の厳しい風雪と万一の地震対策をキチンとした、用意周到な典型的な小樽商人の蔵だった。壁には屋号の¬に七が描かれ二十世紀に入って間もない明治39年の建造。建主の磯野進は大正2年に第5代小樽商業会議所会頭をしたのち、同14年にふたたび第九代の会頭を勤めた海陸産物商人だった。

♦多喜二のリアリズム

 当時流行した日本プロレタリア文学の旗手とされた多喜二は、小樽リアリズム文学の代表でもあり、駅背後の旭山展望台から本郷新が作った、本を開いた形のユニークな文学碑が小樽港を見下ろす。

 多喜二は小樽高商を出て、拓銀小樽支店に勤めるホワイトカラーだった。戦前の無産運動と呼ばれた労働争議が小樽で起きたのは、経済の中心地に労働者が集まったから当然だろう。『不在地主』は(一九二九・九・二九)の日付で小説を締めくくる。

 「殖民地に於ける資本主義侵入史の一頁である」と末尾にある代表作の『蟹工船』は、同じ年の昭和四年三月の作品。多喜二は小樽合同労組に出入し、『不在地主』を書いたことで拓銀はクビ。小説の参考資料にした組合側の街頭ビラなどが北大北方資料室に残る。小樽多喜二祭実行委員会は「多喜二や伊藤整などの昭和初期の文章を引用しても、時代のズレを感じさせない」と、ガイドブック『多喜二と小樽』を刊行した。三浦綾子作の多喜二を扱った演劇『母』も自主上演している。

♦近代合理主義のインテリ

 磯野は佐渡の両津生れ。中央大の前身東京法学院を卒業後、サラリーマンをしてから、明治30年に小樽にやってきて、二年後に早くも初の区議。統計居士と仇名され、政友会色内派のボス。会議所の初代副会頭をした渡辺兵四郎、寺田省帰と並ぶ小樽頑固爺三羽烏の一人などといった逸話が伝えらる。北陸人造肥料会社の設立にも関わったという行動から見ると、ユーモア味ある近代合理主義者のインテリだったのか。

 ‶空知川から水を引いて、江別、石狩に至るまでの大灌漑溝が竣成すれば、その分派線一帯にかけて何千町歩という美田が出来上がる。北海道の産米がそれで一躍鰻上がりに増えるのだった。村長を看板にし、関係大地主が役員になって「土功組合」を組織し、道庁から「補助金」や「低利資金」の融通をうける。拓銀は特別低利で「年賦償還貸付」をした。北海道拓殖のためだった。大地主は只のような金でその金の何十倍もの造田が出来た〟と、多喜二は小説の中で、未開地開拓の仕組みを開設した。そして「造田さえされれば、低利資金ぐらいは小作料だけでドシドシ消却出来た」と書くが、これが当時の社会主義的リアリズムだったのだろうか。

 道内の小作争議はこの農場に限らない。雨龍の蜂須賀農場は大きいだけあって、前後五回ほどの紛争が「蜂須賀の女たち」に記録されている。磯野農場は多喜二の小説のモデルになって、有名になったにすぎない。当時の北海道の課題は未開地原野の開拓。小樽の豪商といわれたような人たちは、本業が安定するとすぐに土地に手を出す傾向が特に目立っていた。

♦商人が大地主に

 明治36年10月現在で、百町歩以上の土地所有者が小樽に27人もいた、という道庁記録がある。大正9年の全道の50町歩以上所有者調査書には、初代会頭の山田吉兵衛はじめ寺田省帰、石橋彦三郎、西谷庄八、板谷順助、木村円吉ら6人の小樽商人が顔を並べる。

 下富良野に在った磯野農場は193町歩のうち、175町歩が水田で、大正11年に1回目が起き、二回目の15年秋から翌昭和2年春に及んだ争議が小説のモデルになった。

 磯野農場は大正2年現在で小作人37人、収穫米200石、投資金額2万7千円という数字が示されている。争議後の昭和10年に農地を小作に開放し閉鎖している。

 連載第四回に触れた沼田町開祖の小樽共成社長、沼田喜三郎も商人地主の一人だ。寿原猪之吉は同じ加賀出身の小樽商人に呼び掛け、加越能開墾会社を明治26年に小樽に設立。資本金5万円を集め、千歳市島松の貸下地270万坪に、北陸地方の石川・富山・福井3県のから小作191戸を入れた。この開拓は期限内に成功したので、40年に株主に土地を配分したうえ、会社を解散している。

♦共成関係者が目立つ

 長沼の未開地200万坪には、沼田の共生関係者がからむ。五代目社長の京坂与三太郎と四代目社長の佐々木静三がそれぞれ出願。馬追原野に19万坪の農場を開設した田口梅太郎も、共成の二代目社長である。京坂与三太郎・笠松千太郎・佐々木清治の三人が合名会社京佐賀農場を設立し、当別に30戸、厚真に31戸の小作を入れた農場を経営した。

 秋田生まれ、漁夫として余市の林家漁場に雇われていた白鳥永作が祝津に9万坪、幌向には金子元三郎と藤山要吉、大河原勝治の3人がそれぞれ開墾に着手している。明治42年に第四代会頭に就任した藤山要吉は、留萌原野300町歩を対象に北陸から小作60戸を入れており、現在の留萌市に藤山の地名が残り、JR留萌線には藤山駅もある。

 醤油醸造業の石橋彦三郎が今は栗山町になっている旧角田村と旭川市内の雨粉に、本間賢次郎が由仁村で貸付を受けて牧場を経営。茨木与八郎札幌に近い軽川や祝津、雄冬などにも手を広げている。越後生まれの米穀荒物商早川両三は黒松内に未開地売り払いを受け、岩内の前田村では未耕地を買い受け、留萌の天登雁は貸付と、手法は違うがいずれも広大な土地を手に入れたうえ、小作を入れるなどして大農場主になっている。

♦商人の開拓地進出

 白鳥永作は海陸産物商、金子元三郎は海陸産物の委託商、西谷庄八は海運・回漕業として、明治27年の北海道実業人名録に記載されている。

 しかし、当時の小樽では一人の商人がいろいろな業種を兼ね、時代にあった仕事を求め経営方針を柔軟に変えた。仕事の分担・業種分離が進んでいなかったというより、多業種兼業が開拓地経済の常道だったとの実情を物語る。

 小樽商人の内陸部の開拓地進出は明治25年ころから始まり、30年代に広がって大正期まで続く。

 ≪貧民を移さず、資本を導入する≫との道庁の政策転換もあったが、開墾中は投資する一方で利益は出なくても不動産を所有して社会的に評価される開拓に従事していることは、それだけでも商人としての信用が増す。さらに、土地を抵当にした銀行の融資が行なわれることによって、まだ生産物を得られていない未開地にも金融面からの価値が生じていた。

 

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢