第11回 小豆将軍

2020年10月25日

高橋倉庫が相場の原動力

♦世界の小豆相場を動かす

 1856(安政3)年、新潟県刈羽郡石地町(現在は西山町)生まれの第六代会頭高橋直治が、小樽の‶小豆将軍〟だ。誰が何処で最初に名付けたのか定かではないが、かつての小樽商人の豪気さを表す言葉として、かなり広く知られている。

 命名の由来は、1914(大正3)年に起きた第一次世界大戦のころ、ロンドンの世界小豆相場を動かし大もうけしたからだという。相場師としての高橋の度胸と勘が幸運を呼んだことは確かだが、その背景には当時の小樽が果していた役割と共に、世界情勢なども関係して来る。

 サラエボでの一発の銃弾が、ヨーロッパ諸国を一大消耗戦に巻き込む。今でも内線続きのボスニア・ヘルツェゴビナ一帯は、依然として世界の弾薬庫だ。豆主産地だったルーマニアやハンガリーが戦場になり、輸出がストップ。欧米労働者の主食で軍隊の必需品だった豆が不足し、世界的に値上がりした時、北海道から小豆類が大量に輸出された。

 ヨーロッパまで道産豆が出ていったことだけでも、当時としては珍しかった。北海道の内陸開拓が軌道に乗り始め、農民が商品作物の栽培に重点を置くようになっていた。

♦小作制が契機に

 当時の北海道農業の典型を雨龍の蜂須賀農場に見る。華族組合農場解散後、配分地の90haに加えさらに5600haもの払下げを受けた蜂須賀は、最大の地主でもあった。華族農場時代の直営方式をやめて小作に切替えると、農民は当面の生活維持のため小豆中心の換金作物を手掛けた。

 明治31年に70haだった小豆作付面積が33年には335haと一気に跳ね上がる。これが大戦による世界的な豆と澱粉の値上がりに結び付き、農村の俄か成金ともてはやされた。

 輸出向けは菜豆と呼ばれるウズラた手亡に、豌豆が中心だった。小豆は戦後になって国内の菓子原料になり相場の焦点とされ、‶赤いダイヤ〟の異名がつけられて、テレビドラマに登場するほど持てはやされた。つい先頃、アズキの先物取引で得た所得26億円を隠し、脱税の罪で商品取引会社の社長が逮捕された。この社長は、東京穀物商品取引所から処分されたが、今でも小豆相場が一攫千金の金儲けの場になっている事実を示してくれた事件だった。

♦宮吉と二人三脚

 直治が小樽に来たのは18歳。荒物屋の店員を3年やって商売のコツを飲み込み独立し、まず味噌・醬油の醸造を手掛けたのが明治18年。23年、花園町に蒸気機械を備えた精米所を開設した。

 この年、陸産商高橋直治が海産商板谷宮吉、金子元三郎らと図り、米・ニシン粕の実物取引を目的に小樽共商会を組織した。商業新聞の発行まで考えた会議所の前身みたいな組織だった。

 続いて30人の代表として小樽米穀鰊肥料取引所設置を申請し、実現したのが26年。翌年、小樽米穀外五品目取引所と改称する。27年暮れの小樽新聞創刊にも出資者の一人になっている。

 27年の道実業人名録では米穀荒物商となっている。二人三脚を続けた板谷宮吉も同じ。宮吉との同業は味噌醤油に始まり、精米もほとんど同時。小樽政界でも死ぬまで同郷の友で、国会議員の政治生命を継いだのも宮吉だった。

♦世界市場に乗り出す。

 直治が弟喜蔵と高橋合名会社を始めたのが明治30年11月。営業内容は米・海産物・荒物の売買と委託販売さらに白米・味噌・醬油も厚かった。

 委託問屋は、生産地から鉄道で運び込まれた農産物を駅商人から受託し・営業倉庫に入れて受け取った倉庫証券を担保に銀行から融資を受け、積出し・輸出業者に売るのが仕事だった。

 高橋合名は委託に止まらず、積出しから輸出まで手を伸ばす。そして、最大手の日本郵船と交渉し、それまでは船便の都合で直接取引不能だったロンドンの商社と直取引を始める。

 外国向け命令航路の日本郵船貨物船を、小樽に回航してもらうことで船賃が大幅に安くなった。このため、横浜や神戸の貿易商が小樽支店を開設したというから、直治の手腕のほどが察しられる。

♦小豆将軍は自称?

 ロンドン市場との関係は、明治41年二横浜の外国商人が青豌豆200㌧を送ったのが道産豆輸出の始り。小樽相場の値が電報で送られロンドン市況に影響を与えた。‶小豆将軍〟の異名は、小樽区初の代議士として立憲政友会から連続3選された、政治家高橋直治自身がイメージ作りに利用した傾向が多分にありそうだ。

 小樽商人のうち、北陸出身者は出身地の北陸地方から米・雑貨を入れ、代わりに肥料用のニシン粕を運ぶことで海産物に手を染めた。高橋・板谷に早川両三や山本厚三の父久右衛門らが北陸系で、これに対して加賀系は北前船時代から海運に関係したが、本店を石川県に置き、小樽は支店だったから、本当の意味での小樽商人ではない。

♦商売にからんだ政争

 こうした出身地別の系統に加え、海派、陸派に分かれて小樽の政界は入り乱れた。高橋は板谷と共に委託派とされた。米・海産物委託組合は仲買・仲立・運送も兼ねた花形業者の集まりだった。

 港改修が運河式か、埋立式かでもめた時は、運河式が渡辺区長・公正会・政友会系。反対が協和会・革新クラブ・民政党系といった図式が描けそうだ。

 明治32年に札幌・函館と同時に小樽も区になる。初代区長選挙に、色内の旅館・雑貨商らが組織した実業協会が区議候補らも立てて運動する。堺町にあった商業会議所で開かれた第一回区会で選ばれた金子元三郎初代区長は山本厚三と同志会をつくる。激烈な動きをして強制解散させられた公民会の流れが実業協会、港改修問題で公民会に反対したのが山田辰雄の協和会…こんな解説を聞いたところで前世紀の出来事。今日的な意味はなにもない。

 高橋は公民会色内系の委託派とされ実業談話会が推す高野源之助を破り、初の代議士となったのが明治35年。反対派からは、金力にものをいわせた汚れた選挙だったといわれる。小樽に限らず、現代でも多かれ少なかれ選挙につきものの利益誘導がおこなわれたことをあえて否定する必要もない。

♦倉庫でかけ引き

 高橋直治商店は朝里と有幌に自前の石造倉庫を所有して、倉庫料の節約と共に手持品の秘密保持を図った。大正5年二小豆1俵を5~7円で13万俵買い占め、翌年から翌々年にかけて16~17円で海外に売りさばいた。、という話が伝えられる。これだけで15万円に近い儲けになる。

 函館本線の朝里駅を出た札幌行列車の右側の窓から、線路に迫る崖下に張祖長く建物が続くのが見られた。延べ面積900坪におよぶ石造りの頑丈な倉庫で、事情を知らない人たちはなぜ交通不便な漁村に、と不思議がったという。

 毎年道産小豆を買い占め、人目につかないように貯蔵し、3年は辛抱して小豆相場が動くまで持ちこたえていたそうだ。大正15年の死後は、北洋漁業向けの通貨貿易の塩や政府米などの保管に使われていたが、戦後の25年に石材が空知の秩父別農業倉庫に転用された。

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢