第15回 戦時統制

2021年12月19日

照明が光り、人気の見えない小樽市商工会館の1階ロビー

♦銀行統合

 第13回に中央バスの企業統合に触れた。戦火が迫って政府が進めた国内経済の臨戦体制は手始めが企業統合で、銀行にも合併の波が押し寄せた。

 当時銀行の第一の仕事は、巨額な軍事費を国内から調達するための国債消化とされ、効率化の名の下で整備統制令に依る一県一行策が進められる。小樽に本店があった道商工銀行は泰北・函館・道殖産などと共に道銀が合併する。拓銀は農地担保長期貸付け重点の特殊銀行から普通銀行化し、14年の北門銀行から、16年樺太銀行、19年道銀、20年道貯蓄と合併を重ね、北日本唯一の銀行になる。

 18年の三井・第一の合同で生まれた帝国銀行の小樽支店は旧三井支店、旧第一は色内支店となった。函館・拓殖無尽と札幌・日の出無尽を統合した小樽無尽が、北見・東和と札幌・北日本を合併し、19年に資本金110万円、寿原英太郎社長の北洋無尽になる。

♦商品統制

 企業統合の次は商品統制。13年の国家総動員法で、内閣企画院が不足する重要物資を戦力充実に動かせることになり、当然国民の財産権制限を伴う。大正6年の暴利取締令は昭和12年の罰則を伴う価格表示義務、13年の商工相による最高価格決定に続き、14年の‶9.18物価ストップ令〟に続く。

 物価だけでなく地代・家賃に賃金まで、9月18日現在で凍結しようとした。行政権力が経済活動を制限しようとして、うまく動く訳がない。生産意欲が減退、売惜しみやヤミ価格が広がる。地方長官が軍事工場へ住民を強制動員できる国民徴用令が出て、「贅沢は敵だ」の標語が町中に溢れる。

 12年に綿製品の切符制が始まると、米を売った金を肥料・日用品に換え、主食に安い外米を売る農家の仕込み慣行に基礎を置いた従来の米穀肥料商は、組合員の共同購入を進める北聯組織によって締め出される。

♦なくなる活躍の場所

 13年当時の道産米は350万石、ほほぼ道内需要を賄え、樺太分70万石が小樽経由で本州から移入。

船で運ばれたうまい内地米はニシン場の飯米として大量消費された。14年11月公正価格引上げと引換えに政府が強制買上し、米の流通過程における商人の自由な活躍場所はゼロになる。

 米麦の政府全面管理は15年から始まり、産業組合が集荷し米穀商組合が配給した。米穀通帳制度は16年に始まり、17年の食糧管理法で国産米は政府強制買上による流通管理とされる。

 政府が解散権を持つ全国統制会の下に、産業種類別の統制組合が地方に置かれたのが16年。

♦統制が商人の力を殺ぐ

 初期の小樽商圏を支えた中心商品は海産物だった。小樽のニシンに対して函館はイワシ。噴火湾周辺で全国生産額の4割が取れ、ニシン漁も明治15~30年の120万石が大正以後5~90万石と減っても、小樽商人独特の監視機能力で全国相場をリードした。

 品質差が大きい数の子は厳格な選別を行なって信用を高めた。身欠きは東京向けに生か半干し、関西は固い本干しと地方ごとの調理法・嗜好に合わせるキメ細かい心遣いが、小樽商人の信条だった。

 世界市場に影響を与えた雑穀は、雑穀商同業組合が大正2年に結成され、翌年に生産検査調査会ができ移輸出検査は同6年から。大正8年に早くも道農産物検査所が置かれ、諸外国と本州向け道産品の品質管理を実施。小樽経済活性化の原動力になっていた。

♦商業統制組合

 道庁が商業組合を組織しないと砂糖の配給は以後不能になる。と通達したのが14年8月。小樽の雑貨商組合が新しい組織を結成しようとしているうちに「道庁の正式通達でなく、担当者の試案に過ぎない」と地元有力者が発言。正式かどうかの確認に、組合の代表者らが道庁に出向いた…なんて、官主導による当時の状況を物語るようなお話が市史にある。

 野口喜一郎勧商共栄会長、松川嘉太郎会議所副会頭、石橋繁蔵組合長、早川基小樽食糧品雑貨小売商業組合理事長といったお歴々の名前が登場する。砂糖統制令の公布が15年7月。この時は企業合同は時期尚早と流れるが、19年7月に早川基理事長の食料品配給統制組合が生まれている。

 市内企業が合同した資本金百万円の雑商連が、道雑穀澱粉商業組合連合に40万円出資し、過去3年間の実績による持株の分配、①委託②移輸出③精撰④澱粉の4部会に分かれている。

 米穀商組合は業者の社交機関から共同販売配給所に変り、日本米穀と全国製粉の両者が合併した中央食糧営団の小樽支所(猪股孫八支所長)ができたほかに、道食糧営団が札幌に本社を置いて、小樽共成の田隅千太郎が支所長になる小樽支所もあった。

 河原直孝市長が支部長の商報は、商工組合連合会長の松川嘉太郎が副支部長、杉江仙次郎会議所会頭が顧問に名を連ねていた。

♦統制解除がチャンスだった

 臨戦体制はあっけなく崩れたが、戦時中の各種統制組合や公団などは、戦後の混乱期も占領政策の継続もあって暫くは存続した。食糧から飼料・大豆油糧など業種別の講談も統制解除で流通は次々と民間商社の手に移る。

 23年に誕生した道農産物協同組合連合会は、寿原英太郎が初代理事長になった。一方、小樽商人が得意にしていた製品検査は国営化され、農林省に食糧事務所や輸出品検査所が設けられた。

 25年の澱粉、26年の雑穀と統制解除が進み、道内奥地の生産物は産地で直接貨車に積込まれ、中間商人の出番がない。木材取引も戦前は小樽が中心だったので、道木材業組合連合会の会長・事務局長はともに小樽商人が占めた。

 22年に統制解除になった石炭は配給統制組合が販売会社になり、さらに半官半民の配炭公団ができて全国8つのうち、小樽配炭局を置く。24年の公団廃止で炭礦別の直属仲買が特約小売店方式を探る。石炭から石油へのエネルギー革命に際して、石油大会社の道支店は始め全部が小樽だったのに、28年までにすべてが札幌に移転した。

♦繊維、おまえもか

 老舗13店が繊維問屋同盟会で特約・運賃割戻金積立をやれば、新進気鋭の若手は繊維卸商組合を作り活発な動きを示したのが10年。米・海産物と並んで小樽経済を牛耳ったのが繊維だった。

 12年6月28日の卸手持ち綿製品販売禁止令により、全道の在庫調査をした結果、98万円のうち80万円が小樽卸商業組合員503社のものだった。また16年3月の生活必需物資統制令で商工省が実績調査をしたら、道内の繊維製品1400万円の82%が小樽だったと、小樽繊維製品卸商同業会結成萬15周年記念誌の「小樽の繊維」。

 17年の道繊維製品配給統制会社社長が小樽の平松徳次、3常務は小樽卸商で、繊維製品の集散地は大阪、東京、名古屋に次ぐ4位だった。JR南小樽駅周辺の南樽地区には戦後になっても道内の繊維問屋が軒を並べた。卸商同業会の最盛期は戦後の39年で、24年結成時の40社から83社に増えている。

 なのに今は大手商社の支店が去り、南樽地区の中心だった市商工会館では、展示ケースだけが残って人気もない。

~会議所の百年・小樽商人の軌跡撰

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢

店で使う数の子は

全て余市産

株式会社カネヤ浅黄商店

大〆糠塚水産株式会社

株式会社三印菊池水産

 

この冬は

自らの手で数の子づくりにも挑戦してみます