第16回 蝦夷の大尽

2020年12月15日

 小樽公園の緑に囲まれた藤山要吉の胸像

♦公会堂を寄付

 春の陽光がまぶしく、小樽公園の樹々がの緑に照り映える中で、藤山要吉の胸像に対面した。道路からちょっと引っ込んだ位置に在るので、特に注意しないと気付かずに通り過ぎてしまう。

 「北海海運の大先覚、真に開発草創期に於ける本道経済界の雄、進取の気象に富み、好況に尽すの念篤く、人々敬仰せざるはなかった…」という、側面の碑文は昭和33年当時の安達与五郎市長が書く。道路筋向いに端然とたたずむ公会堂は、明治44年に藤山が皇太子宿泊所として独力で建て、小樽区に寄付している。

 要吉は小樽商業会議所の創立議員の一人であり第四代会頭。明治36年からの第3代・添田弼会頭から42年に引継ぎ、大正2年に次の磯野進に会頭を譲っている。

 一八五一(嘉永4)年羽後国、今の秋田県に生まれた。生家は佐竹藩の御用油商だったというが…。

♦養子が転機になる

 二男の気安さからか、商用でやってきた青森県弘前から津軽海峡をひょいと越え、当てもなしに蝦夷地に渡ったという。これといった伝手もなく、福山の回船問屋・田中武右衛門に奉公入りしたのが17歳の時。江戸から東京へ、と世の中が大変動していた時期だった。単身で渡道する勇気、決断力が後の小樽大商人に成長する基盤になっている。

 21歳になった明治5年、小樽の大十中村の問屋奉公に移る。そこで働いているうちに信香町の回船問屋藤山重蔵に見込まれ、手代から養子になったのが要吉にとって人生の転機になる。

 松前藩政時代に培った蝦夷地商法のコツを城下町の福山で習得し、維新後に商権主力が移った小樽で商売の華を咲かせた商人グループの一人だ。山田吉兵衛、渡辺兵四郎、金子元三郎、麻里英三らがこのタイプ。

 養子になった翌11年に重蔵が死んで、家業の回船問屋を継いだ。しかし、これからは他人の船を動かして手数料を頂くような時代ではない。自前の船で商売をやろうと、海運業への進出を目指す。まずは小型の和船二隻から始めたのだが、それが時代の動きにぴったりと合致する。

♦決まった海運業

 時あたかも小樽と北海道内陸部を結ぶ鉄道が開通し、ますます海上輸送の重要性が高まる。小樽―稚内航路を始める天塩漕運会社を設立したのが20年。22年7月にはさらに天塩北見運輸会社を設立した。

 資本金五万円は麻里英三ら地元の漁業・商人に参加を求め、洋式の汽船二隻を石川島造船に発注する。翌23年5月になって増毛に本社を置き、続く24年には3隻目の新鋭汽船を注文したうえ、本社を小樽港堺町に移している。

 この新型の西洋汽船は北見地方と大阪を結ぶコースを走り、27年には下関との間を運行する藤山汽船部に発展する。この年に汽船小樽丸を新造し、道北地方に散らばる自分の漁場巡りにも使う。和船に始まり洋式帆船へ、次は動力を使う新型汽船、と海運業の規模は次々に拡大し続けた。

しかし、中央政府と結ぶ大資本の日本郵船が道内航路にも積極的に進出するようになると、地方資本の競争力では太刀打ち出来なくなる。天候不順などの自然条件も重なり、持ち船の沈没にも見舞われたりして、天塩北見運輸は30年に解散する羽目に…。

♦旅順港閉塞作戦

 一月号の大十回『板谷王国』で、明治37年3月27日の旅順港閉塞作戦が、商船王国・板谷合名発展のきっかけになった、と述べた。

 ‶スギノはいずこ〟と、軍神広瀬中佐が杉野兵曹長を探し回る小学唱歌で有名だが、この閉塞作戦は一度だけでなく、実際は前後三回延べ21隻の商船が動員された。

 板谷商船は米山丸と弥彦丸が沈められたのは第二回、5月9日決行の第三回作戦には藤山汽船の小樽丸が旅順港口で爆沈している。

 船足が早いロシア艦隊が津軽海峡を我が物顔で荒らし回るのを防ぐ目的で、基地の旅順軍港内に閉じ込めようとして、港口に船を沈める戦法だった。このために、全国から大型船を徴用した。

 開戦時には‶ロシア浦塩艦隊が小樽を海上から砲撃する〟とのデマが飛んで、住吉駅に避難民が殺到したというご時世だった。だから「お国のために」との掛け声の下での消耗戦術も、他にやり方がなかったのか。効果はどれほどのものだったか不明だが、結果として勝ち戦だったから、戦後になって膨大な政府補償金が入る。そのお蔭で全国的な海運会社に成長し、40年代の藤山汽船所有船舶は十余隻を数えていた。

 明治27年の道実業人名録ではまだ水産業とされているが、同時代の小樽商人の例と同じく、海運専業ではなくほかに漁場と農場も手広く所有・経営していた。漁場漁業は、20年に稚内でニシン漁を手掛けたのが始まり。24年には紋別で鮭鱒、29年には斜里・知床にも進出。北見国内の漁場が30か所もあって、自前の洋式帆船に乗って北見を経由し、日露戦争後の樺太にも出かけ、沿岸の建網漁まで手を広げている。

♦農場経営も

 さらに農場経営では、留萌原野の未開地三百町歩に北陸地方からの小作人83戸を入れて開拓したほか、幌向原野でも40町歩に10戸の小作人を雇って開拓している。

 こうした原野開墾事業は金儲け目的の単なる商人の片手間仕事ではなかったようで、その一つの証拠に留萌市には現在でも「藤山」の地名が残っており、JR留萌線にも藤山駅がある。一九〇七(明治40)年から昭和13年まで藤山炭山も在った。

 開墾地に地主の名が地名として残るケースは開拓まもない本道ではまま見られるが、その場合、他に比べ多くは農民に慕われるような施策が行われている。海運業で藤山とすぐに比較される板谷も、似たような農場経営をしており、今でも空知・北竜町に板谷の地名が残る。

 空知に沼田町の名を止める沼田喜三郎は小樽共成の社長。加賀出身の小樽商人が集まって出資し、恵庭地区に開拓した加越能開耕社に、小林多喜二の小説『不在地主』のモデルにされた磯野農場など、小樽商人の農場は数多いのに、人名地名として現在まで使われている例は極めて少ない。

♦公共に尽すの念

 後の大正天皇になる皇太子が小樽にやってきて宿泊する、というのは天皇が神聖視されていた当時としては天下の一大事。いくら景気が良いといっても、まだ小樽には皇室に連なる御仁に御泊まり願えるような建物はない。

 そこで要吉が単独で千鳥破風瓦葺き平屋建て267坪の純和風宿泊所を建てる。唐破風三方吹き抜けの車寄せ玄関は皇太子用だったから。「公共に尽すの念篤く」小樽区に寄付され、そのご末永く公会堂として使われた。

 初期小樽商人にはかなりな文化人が多く、明治7年8月に結成された俳句結社の親睦社同人として「以寧」の俳号を持っていた。共成の三代目社長井尻静蔵の俳号は淇水、水産業の船木忠郎は古漁の俳号を使っていた。

 また一代で藤山財閥とまでいわれた金満家だったから、派手な遊び方でも名を馳せ、道内に止まらず東京方面でも有名になって‶蝦夷の大尽、吉原の門を閉じる〟とまで喧伝された。

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢