毛利昭子さんを想う

2021年03月11日

 毛利昭子さんが、あの不幸な事件で亡くなられてからもう三十二年が経つ。若し生きておられたら喜んでペンをとり名文を戴けたものと思うが、これも成らず誠に残念なことである。こうして筆を走らす傍らで「小樽の女性史がでるの、素晴らしいことじゃない…」と、あの歯切れのいいお元気な毛利さんの声が天国から聞えてきそうである。見るからに聡明で知的な美しさ。一見小柄だが動作は機敏。そのその頃、赤いスーツに身を包みおしゃれが実に印象的、津田塾出身で英語は流暢、肌ざわりも暖かい人であった。

 終戦直後、色内町の旧三井物産ビルで米進駐軍の通訳として活躍されていた毛利さんの姿は輝いていた。家に在っては医者の妻として、一男二女の子供を育てられ、その忙しさの中にもアメリカの大学に留学、また帰郷後は婦人団体や社会教育、青少年問題、消費者運動など公私にわたりご活躍、一方、女性の地位向上のために努められた功績も忘れてはならない。小樽の毛利女史いな北海道の代表として国際的立場で欧州・アジア・オーストラリア・ニュージーランドへ外遊、教養と見識の高い勉強家でもあった。いよいよ熟練の活動が期待された矢先、当時五十二才の若さで尊い命を落とされたことは余りにも惜しく、女性の地位向上のためにも大きな損失であった。

 さて、毛利さんを更に知るのに、幸い毛利昭子遺稿集ともいうべき『てっせんの花』に、ご本人が昭和四十一年というと死亡一年前、全道婦人大会で講演されたものが載っているので、一部要点のみ筆者の責任で述べさせていただき、同女史の信条、面影を偲ぶことができたらと思う。

 まず毛利昭子さんは、当時日本の急速立ち直りについて「東南アジアの人達はしきりに日本に学べと言っているが、当の日本人は一向に自分達の国が歩いてきた過去を振り向こうとしない。日本人に大切なことは、もう一度自分の国を見つめるということである」と指摘している。次にこの高度消費の時代にあって、明日の生産のための今日の遊びであるのに、遊びのための遊び、現代は目的あって無きに等しい時代であって、これでは次の世代は育たない。さらに、家庭生活の重要性を説き、一生の大部分を家庭で過ごす私ども女の母の優れた知恵と努力が今日ほど必要な時はない、と力説。次いで、奥州派石の文化、日本は木の文化で、欧州のように千年二千年の建物が今でも残っており、ロンドン塔やベルサイユのように一国の栄光や屈辱の歴史が石に刻まれ民族の来し方が子供の時代から見つめられてゆく国と違い、木の国のわが日本は容易に過去を忘れ得る業を持っていないか。文化遺産は若い世代に伝えてゆかねばならないが、そこに自然の美しさ心の美しさが育まれよき人間性ができ上がってゆく。さらに、「人間は神の前に平等である」だから婦人も男性と同じく社会に対して責任と義務を受け持つものと、婦人団体の活動に示唆を与えている。さいごに、毛利さんは学生時代、母校の老教師ハッホン先生の言葉(自分がそこにいることによって周りに人が暖かくなる、そのような人間になれ、云々)を引用し「私は私なりの力で、他の人や幸福のため少々でも役に立てました」と、私達最後の日に神様に言える人間に私自身も本当になりたいと、心から願っている」と。その講演を終えている。

 尚、ご尊父は旧小樽高等商業学校(現小樽商大)の学長、戦後、参議院議員、衆議院議員を勤められる。

                                            (文責 島野)

 

 

 

 

 

より

発刊 平成十一年三月三十一日

編集 「小樽の女性史」編集委員会

発行 小樽市男女共同参画プラン推進協議会

   会長 島野 千恵子