母あっての質店経営

2021年03月12日

大正四年~平成十年

金久保 龍(談)

 タツさんが、金久保質店(大正十一年開店)に嫁いだのは十八才の時といいます。次女が誕生したばかりの頃、御主人は、支那事変でソ満国境でご苦労なされ、一旦帰国しましたが更に昭和二十年二月樺太のカミシスカに行かれました。終戦後シベリアに抑留され二十四年十月に復員なさいました。ご主人の留守の間小学校四年生から二月に生れたばかりの子ども五人を抱えての生活が続きました。お店の方も品物がないので閉店していたということです。

 昭和二十一年、弟さんの助言と資金援助を受け、ようやく商売を復活させることができるようになりました。

でも、資金がすぐに底を突き、利息を折半という約束で「闇屋」というブローカから融通をしてもらうという苦労もしたと言います。

 やがてお子さんも五人になりましたが、御主人のお母様がお子さんの世話から教育まで分担くださって「商売に専念できたのは、お母さんのお蔭、お母さんあったればこその商売でした」と感謝しておられました。

 商売は、お客様が行列するほど繁盛し、中には「丼」を持って並んだ人もあったそうで、通り掛がりの人が「何の配給ですか?」と足を止めたと言う笑うに笑えない珍事もあったそうです。

 質屋に持ち込まれる品物は、洋服や着物などの衣類をはじめ靴や下駄など生活に密着した身近な品物が多かったそうです。また質店を利用する人も教師や銀行員もあり様々だったそうです。

  資金がそれほどあるわけでは無く、貸出の現金が不足することがしばしばで、その度に「番号札」をお客様に渡し、先ほどの闇屋を始め知人等の間を走り回りお金を工面し、順繰りにお客に渡すと言う苦労をしていたという話です。今ですとすぐ「銀行」と頭に浮かぶのですが、当時は「同業である」ということで融通して貰えなかったというのですから、時代の相違を感じる話です。

 当時、当家と親交のありました毛利昭子さん(後に「主婦の会」「北海道婦人団体連絡協議会」会長)が遊びにみえ、タツさんに「あなた、家にばっかりいては駄目なのよ」などとよくおっしゃられておられたそうです。

 冬の頃、当時は外が暗くなり始めますと一斉に街灯がともる時代でした。毛利さんがお見えになっておりました所へ外出からお帰りになられたお母さんが「どなたか存じませんが電灯のつく頃まで主婦たるものが人の家にいると言う事はもってのほかですよ」とおっしゃったとの事で、その後、毛利さんがいつも話題になされていたという事を懐かしそうにお話ししてくださいました。

 現在タツさんは、茶道・表千家のご教授や国際親善交流などでご活躍なさっておられます。

 (この稿取材のあと、平成十年九月逝去、ご冥福をお祈りします)

                                   (文責 嶋田)

第八章 女性のはたらき より