小樽の女 ① 美

2021年04月10日

題字 寿原秀子さん(北洋相互銀行社長夫人)

カット 森本光子さん(道展会員)

京美人、秋田美人などは昔から繰りかえし小説や詩歌に描かれ美人の典型として有名だが、‶小樽美人〟がこれまでそれほど表立って語られたことはなかった。‶小樽美人〟なる言葉があるとすればそれは諸家の筆からよりも、むしろ小樽にやって来た旅行客や船乗りたちの間で定説のようなものを形づくっていったと思われる。行きずりの人々が小樽の女に目を見はったことを、われわれの間にまだ本州を‶内地〟と呼ぶ習慣が残っているように、彼らもまた北海道を未開拓の異国と見ていたため、と一概にいい切ってしまうことはできない。なぜなら北海道、とくに小樽は日本のいわゆる美人系の正統を継いでいるとされているからだ。初春の話題にいろいろの角度から素描してみたのがこの‶小樽の女〟である。

 

にじむ雪国の情感

素朴な中に豊かな資質

 

小樽人の大半は秋田、新潟、富山、石川県などの東北、北陸からの移住者で占められているが、これらはいずれも美人国として名高い。日本人の原型は一説によると南方系の原マレー族やモンクメル族と北方系ツングース族が混じり合った新しい種族でこれがいわゆる先住民族を形づくっていた。これに対し後から朝鮮をへて日本に渡ってきたのが有名な美人種族であるアーリア人種の子孫であり、日本に来て最初に住みついたのが前述の各県だったという。日本海沿岸に美人が多いといわれるゆえんであろう。

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小樽の女の美しさはどこにあるのだろうある人はハダの白さ、きめの細かさを、ある人はほおのふっくらと豊かなことを、またさらに切れ長な目の黒く澄んでいることをあげる人もある。アーリア人種の特徴は目が切れ長、髪が黒く鼻の位置がやや高いとされている。これを入浴にハダをみがくぬかぶろを忘れないという京おんなに比較するとき、それは商品的な人工美に対する自然の美といえそうだ。そこには働くことから生まれる美しさも加わる。事実かつての彼女らは労働力でもあったのである。

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オタルが小樽として発展の緒についたのは明治維新以後のことで、主として勝納川付近から開けはじめたのだが、最初のにぎわいは‶忍路、高島及びもないが…〟の江差追分に出てくる漁場の高島からはじまった。彼女らはそこで父母や夫と一緒に大漁歌を歌い、凶漁を悲しみ、浜の喜怒哀楽とともに生きてきたのだった。‶明治は遠くになりけり〟だが、その高島にはいまでも古い小樽があり、われわれのそこはかとないノスタルジアを慰めてくれる。カクマキやアイヌのチャシに似たケットに顔をかくし雪のなかを小走りに歩く女たち…。環境にはぐくまれ、たくましさのなかに意外に整った顔たち…人々が小樽の女に見出している美は案外このようなものだと思えてくるのだ。いずれにしても労働をしない手足の美しき千古の伝統を背負った言葉や立ち居振舞いのみやびかさなどから想像される京おんななどの美ほど小樽の女と無縁のものはない。

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現在の小樽の女を代表するのは三世である。そしてすでに彼女らは‶内地からの移住者〟ではなく純粋な‶小樽の女〟になり切っている。だがカクマキがとりどりの色と形のオーバーやネッカチーフにとってかわったように、かつての地方的特色なものもだんだん失われてゆきつつある。いわばスモール・トウキョウ化ということであり、札幌などの場合それがとくに顕著に現れている。作家伊藤整が数々の詩で繰りかえし歌いあげた‶うすい歯の足駄をはき紫のカクマキに顔かくす雪あかりの人〟‶浜風のなでしこのような頬のあわいまなざしのよい乙女〟‶頬を丸くし目を黒く開いてスズメのように雪をちらかして歩く少女〟たちはいずれも小樽という風土の母胎なしには考えることができないものだった。近代文化が地方色を殺してしまうのだという。せいぜい三世までの伝統という考えのない小樽の女たちには‶守るべき美〟という意識がないものともいえるだろう。ゲーテを気取らなくても野に咲くバラが一番ふさわしく美しいこともある。先天的に恵まれた美の資質はひそかに息づきながら彼女らが新しい‶小樽美人〟の伝統を生み出すことを助けるにちがいない。だが失いたくないものは、うつろいやすい 美を拒み、きびしい自然にたえることから生まれた素朴な美しさと単調なトーンでおおわれた雪国の情感を人々の胸に呼びさますひなびた美のよさである。

小樽の代表的美人といわれる‶高島の娘〟たちは 寒風の中を今日も元気に働く=高島漁港