彦根にみる城下町の変遷

2021年04月03日

「日本発見」第二号 城下町

暁教育図書 より

どこの城下町を訪れても、人々はそこに各地の独自な町並みを見出すと同時に、どの城下町にも共通した町の構成を発見するにちがいない。それは城下町が、近世のはじ同じ政治的意図をもって計画的に建設された都市であり、きびしい身分制秩序の構成をもって構築されたからである。しかし、この城下町も近世の歴史の歩みのなかで大きく変貌し、変容した。その変遷を近江の城下町彦根を例にとってみてみよう。

 城下町以前-佐和山から彦根へ-

 いま、彦根城天守閣がそびえる金亀山には、古代から中世にかけて観音霊場として知られた彦根山西寺がたっていた。「梁塵秘抄」に「観音験を見する寺、清水石山長谷の御山、粉河近江なる彦根山、真近く見ゆるは六角堂」とうたわれ、十一世紀末の寛治年間には白河上皇をはじめ、藤原師実、師通などの貴族、京中の上下多数の人々が参詣し(『中右記』)、「天狗の所為たる由、世人之を称す」(『百練抄』)といわれるほど爆発的なものであった。

 ところで、中世も末期になると湖東平野をめぐる戦雲はしだいにはげしくなる。彦根の近辺でも佐和山に城郭が築かれた。国鉄東海道線をはさんで彦根城の東に向きあった形でたつ小山がその遺跡である。佐和山城は中山道鳥居本駅に面してひらき、背部の搦手は琵琶湖の内湖につらなっていた。中山道と北国街道に接し琵琶湖に面した交通と戦略の要地を占めていたのである。浅井長政の軍勢はここに拠って信長の上洛をはばもうとした、しかし、元亀元年(一五七〇)信長は佐和山城をおとし、丹波長秀を城主としてここをかため、阿部又右衛門を棟梁として百挺櫓の舟をつくり水軍の拠点とした。

 信長についで秀吉が天下統一をとげると、この佐和山城に石田三成らを派遣し所領させた。三成は本格的な城郭を築き、城下を整備した。「三成にすぎたるもの」とよばれるほどの堅固な城が完成したのである。やがて、慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦に三成がやぶれると、東軍の将井伊直政が進駐した。その遺志をうけついだ直勝は、湖の前面に三方を平地でかこまれた平山城の構築にふさわしい彦根山への城郭の移築を決めた。

 城下町の建設

 彦根城の築城は慶長八年(一六〇三)から元和八年(一六二二)に及んでいるが、大坂冬の陣・夏の陣を境に前後二期に分けられる。

 第一期工事は幕府がその工事にあたり、役夫を七か国十二大名に命じて、伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前から動員した。先年の天守閣の解体修理工事の際発見された墨書銘をみると、天守閣の造営に参加した大工のほとんどは城下の大工町住居の大工であったが、しかし、遠く関東相模国小田原からやってきた大工もいた。譜代の雄藩として幕府の権力を背景にした職制のもとで工事はすすめられていたことがわかる。

 第二期工事は元和二年(一六一六)藩主直孝のもとで城郭の工事が再開された。未完成の城郭に、濠・土居・櫓が完備し、藩の政庁藩主の居館として表御殿も建てられ、元和八年(一六二二)にはほぼ城郭の完成をみた。

 城郭の工事と併行して、城下町の建設もすすめられた。築城前、わずかに二、三の村と水田・湿地であった一帯を城下とするため、土地をならし、池を埋め、河川をつけかえた。今も市内を横ぎって流れる芹川は、築城の際川筋を城下の南に曲げて西へ直流させたものである。彦根の繁華街であり、先年の町名変更でその名が失われた河原町はこの築城前の川筋にあたり、それにちなんで町名としていたのである。

 城下の建設にあたって、既存の旧物の破壊が強引にすすめられた。佐和山城の城郭を撤去して、その山頂部を七間から九間にわたって削りとってしまったという。築城にあたって、彦根山上に建っていた彦根山西寺をはじめ社寺のすべてを移転した。築城前、この辺りに住んでいた住民はその土地を強制的に処分され、住居は移され、耕地は没収された。反抗する住民を武断的に処分し、城下町の建設は強行されたのである。

 実際、彦根城は琵琶湖の湖上運送を監視し湖東地方にも強い力をもっていた。中世末の戦国動乱の湖東の町と村には自治と自衛の町づくりと村づくりの動きが見られたのである。彦根の近辺でも、「古代正法寺に西法寺と云ふ寺あり、此の寺は三郷の惣堂にて春秋郷士等惣集会して年中行司を定し所といふ」(『近江古代地名記』)と、自治の動きをみせる村があり、村堂が惣堂として惣的結合の場となっていたことがわかる。ところが、城下町彦根が建設されると大きな変化がおこった。「これ迄例格としてありし神事、祭礼、仏事、修法、談義、説法、悉く停止ありし由。もし郷中などにてわけある神事などは大庄屋又は役人の請合これなくては御免なかりし由、其余俗家には伊勢講、頼母子、参会、遊興の類、すべて大人数集会する事堅く御法度なり」(同上)ということになった。また、領外の安土に近い、「南の郡常楽寺町には本願寺の小寺あり、大人数集まって法事語りの由、催し候義相聞へ、御他領なれども、当家より御役人遣わされ御吟味あり、その中の頭人といふは矢走浦の船人にてありし由の所、三人御仕置に逢ひしといふ」(同上)事件さえ起こっている。城下町彦根は領主の一元的支配の拠点として、これに対抗する動きを圧倒して配置されていたのである。

 城下町の構成

彦根城下惣絵図(天保七年)彦根は城郭を中心にして、四区画から成りたっていたことがわかる

 城郭の構築と同時に、城下に家臣団の居住区が設定され、慶長九年(一六〇四)にはほぼ地割が終了し、家臣団は彦根城下に定住することになった。ひきつづいて、町人の居住区の町割がすすめられ、内町四町とよばれる本町・四十九町・上下魚屋町・佐和町がまずおかれ、のちの彦根四手親町となった。元和八年(一六二二)には城下町はほぼ完成をみた。その後、寛永・正保年間にかけて城下町は拡大した。古い城下町絵図を見ると四区画から成りたっていたことがわかる。

 第一郭は城郭である。城郭の中心は山頂にそびる天守閣で、その周りの尾根沿いには矢倉や多門がおかれていた「天守ハ京極家ノ大津城ノ殿守殿ナリ 此殿守ハ終ニ落チ申サズ、目出度殿守ノ由、家康公上意ニヨッテ移サル由、棟梁浜野喜兵衛恰好仕置シ建候由(井伊家年譜)と記されていたが、解体修理による調査の結果、天守は移築し再建したものであることがわかった。

 東の山麓に表御門がおかれていた。ここは藩内統治の政庁であり、藩主の邸宅ともなっていた。西の山麓には、米蔵、材木蔵、竹蔵などがならんでいた。

 第二城郭は二の丸・内曲輪である。城郭とは内濠でへだてられ、これをめぐる大きい道路に面して家老はじめ高禄(ほとんどが千石以上)の家臣の邸宅がならんでいた。その北東の端、内湖につきでた形で槻御殿が下屋敷として延宝五年(一六七七)に建てられた。表御門とちがった藩主のまったく私的な奥向きの生活の場となったのである。いまの玄宮園、楽々園、八景亭はその遺構である。

 第三郭内町は武士と町人の居住区からなる。内曲輪をめぐる中濠の周りや北西の琵琶湖に面した地区、また、第四郭外町と区画する外濠の内側に面して中級の家臣団の住居がならんでいた。中濠に面し佐和口の辺りはいまも当時のおもかげをよくつたえている。なかでも、井伊直弼がその部屋住の時代をすごした埋木舎は武家屋敷のたたずまいをよくのこしている。

 第四郭外町も武士と町人の居住区からなる。内町の三方は土塁や竹藪がめぐらされ、これを外濠がかこんでいた。その外側に下級の家臣団の屋敷や足軽屋敷がならび、町人の居住とつらなっていた。しかし、この城下町の外縁部を形づくる祖と街にめぐらされた濠や土居はまったくみられない。外に対してなんの防禦施設ももたずひらかれた形を示している。

 城下町彦根は金亀山上にそびえ立つ天守閣を中心に、家臣団の住居が身分と職掌にしたがって配置されていた。城下の道路は碁盤状を基本とはしているが、どの道路も屈折し、築城前の河道や地形を反映して斜交している所も多い。また、外濠をめぐる要所を中心に大きな寺院が配置されている。これは大きな建造物と広い境内に非常の際の軍団の屯所としての役割をはたさせようとしたものとみられる。さらに、中山道高宮宿から城下へ通ずる道に面して藩の刑場がおかれていた。この刑場は城下町の中核にそびえる天守閣の威厳とともに、城下町に住む人々や城下町に近づく人たちにははかりしれぬ畏怖感をあたえたにちがいない。城下町はまことにきびしい身分制秩序と軍事的性格で貫かれた都市として計画されていたのである。

内曲輪の池田屋敷表門 後方は彦根城天守

 城下町の変貌

 近世も中期になると城下町彦根にも大きい変化があらわれた。城下町は都市生活の発展とともにしだいに変貌したのである。たとえば、職種による集団住居をみても元禄年間になると魚谷町や鍛冶屋町などを除けば、それほど高い集中度はみられない。城郭の修理についても、江戸中期になると担当する大工が魚屋町、佐和町など大工町以外に居住する場合が多くなっている。この傾向は藩と強く結びついていた城下町の町人が、しだいにその結びつきをうすくし、城下町住民による町へと変容していたことを示すものといえよう。

 ところで、城郭や内曲輪は地域的に分離され、身分格式的に隔離され容易に近づくことのできない場所であった。城下町の中核であった城郭は、その身分的閉鎖性のために、単に権威を誇示するだけで、都市生活の機能的中核とはならなかった。ここに城下町のもつ計画的矛盾があった。城下の町割当初から町人の住む町方でも内町とくに本町の辺りは城郭の大手につづく京極口に接し格式的地位を保っていたが、城下の商業的中心はしだいに城下町を通過する外町を中心とした日常的な交通路へと移っていったのである。

 城下町の建設当初「田畑はいうに及ばず御城下までも所々荒地多くして、当時の如くたて詰りし家並にあらず、……又当時の居宅より見る時は小屋懸の類なり、その中に至て構はぬ人などは屋根にて暮せし人ありといふ」(彦根藩幷近郷往古古文書』)といわれ城下町建設の当時、町家として屋敷を割りあてても、「地取の縄張りいたって広く地所ありし故に、夜半に忍びてその縄張りを縮めに参りし」(同上)町人もあったとつたえられている。それほど、土地の所有意識はうすかった。時をへるにつれ城下町は大きく発展した。元禄のころには、ほぼ今のような城下町のたて詰まった町なみを形づくっていたらしい。町人の間には、都市生活の向上とともに、「はなれ座敷をかまえ、客ヲ招いて酒肴でもてなし囃ニハ三味線など用い、又は女子共に舞をさせる者もあらわれる」(元治元年 御印御触書)までになった。町人の生活は度かさなる禁令、倹約令にもかかわらず、しだいに向上したのである。

 いっぽう、武士の生活も大きく変化した。佐和山城下の生活をつづる『おあむ物語』をみても、一日二食でその衣・食・住の生活はきびしかった。城下町の都市生活の向上は藩の経済を圧迫し、武士とくに下級武士の生活はしだいに窮迫してきた。すでに、延宝六年(一六七八)藩士七十六人が連判して高利借金返済のための拝借金を願いでて連判徒党の法度にふれ、追放されるという事件がおこっている。城下町の武士と町人の都市生活に矛盾が深まっていたのである。

 城下町の周辺でも大きい変化があらわれた。彦根藩内にあって町方として独自な歩みをつづけてきた在郷町・長浜の動きが注目される。もともと、長浜は天正二年(一五七四)秀吉によって建設された城下町であったが、寛永十年(一六三三)彦根藩にくみいれられ、彦根とならぶ町方として発展した。城下町彦根がむしろ消費都市であったのにたいし、長浜は港町、北国街道の宿場町として、また湖北の養蚕地帯を後背地にして製糸布の手工業を発展させた。宝暦年間には縮緬機業は窮迫していた藩財政を回復させるために彦根藩の国産振興の中心となった。

 このめざましい在郷町・長浜の発展は、特権的な城下町彦根にその機能的変容をせまった。かつて、湖東から湖北にかけてつよい政治力をもって臨んでいた城下町が、ふたたび台頭してきた町や村の新しい動き、商業や手工業の発達から深い影響をうけることになったのである。城下町彦根は近世の中期から後期にかけて、内と外から大きい変容をせまられていた。そして、明治維新をむかえることになる。

~西川幸治

 

彦根城 別名金亀城 甲州流築城法による平山城で、三層五階の天守が現存

彦根城

 関ケ原合戦の後、大幅な国替えが行われ、上野国箕輪城主井伊直政は近江佐和山に封ぜられた。佐和山城に移った直政はこの城の不便さを痛感し、新城を築くのに適した地を求めていたが、戦役で受けた傷がもとで没してしまう。直政の後を継ぎ、佐和山城主となった嫡子直継(のち直勝)は、彦根山に着目し、そこに新たな城を築くことを決意した。慶長八年(一六〇三)、直継は徳川家康の許しを得て、金亀山(彦根山)に新城を築き始める。工事は七か国十二大名が手伝いを命ぜられ公儀御奉行三名が指揮をとる天下普請であった。西の丸三重櫓は小谷城天守、天秤櫓門は長浜城、太鼓門は佐和山城からの移建と伝わり、慶長十一年の本丸天守完成とともに直継は新城に移った。直孝(直継の弟)治世下の元和二年(一六一六)から藩独自で居館、表御殿、濠、諸櫓を築き、同八年にほぼ竣工した。現在三層天守と附櫓、多門櫓が国宝、太鼓門と続櫓、天秤櫓門が重要文化財に指定されている。

「日本発見」第十三号 名城