安土

2021年04月05日

表門への路(今は通れません)

大手門 の方から

大手道をひたすら

登り

仏足石

信長公本廟

天主跡西下の伝二の丸跡に信長公の本廟がある。重臣、羽柴秀吉は天正十一年一月三法師に年賀を表すべく登城し、翌二月信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬して本廟とした。そして六月二日の一周忌には織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。

安土城天主から少し降りたところにある本丸御殿跡。「信長公記」によればこの建物には天皇を招き入れる「御幸の間」があったと記載されている。その後の調査で慶長年間に改修された京都御所内の天皇の住居である清涼殿と酷似した構造になっていたことが判明、さらに礎石上の柱痕からこの建物が高床であったこと、周囲の伝三の丸跡や天主取付台と渡り廊下で繋がっていたことなどが明らかとなる。

背丈ほどの高さの石垣に囲まれた東西、南北それぞれ約28mの台地。今は礎石が1.2mおきに整然と並ぶだけであるが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていた。五層七階(地上六階地下一階)の天主はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスによればヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さであったといい、高さ33mの木造高層建築は当時、わが国で初めてのものであった。

内部は信長公の御用絵師、狩野永徳の豪壮な障壁画や装飾を配していた。

三重塔 山の中腹に見える三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺き。室町時代の建物で棟柱に、享徳三年(1454)建立、天文二十四年(1555)修理の墨書きがある。

天正三~四年に信長公が甲賀の長寿寺(湖南市)から移建したものとされている。

慶長九年(1604)豊臣秀吉の次男、秀頼が一部修理している大正三年九月、突然三層目の屋根と一・二層の軒が崩落したがすぐ修復された。

三重塔:明治34年3月27日 特別保護建造物に指定 重要文化財

摠見寺本堂跡からの眺め

石垣は今にも崩れ落ちそうでした

地震もしくは大雨が心配です。

 

 

織田信長公が天下統一を目標に天正四年(1576)一月十七日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え標高199mの安土山に築城させた平山城。

岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。

現在は四方とも干拓により陸地となっているが当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ南方のみが開けた地形であった。

そのわずか三年後天正七年五月、わが国で初めて天守閣(天主閣)をもつ安土城が一応の完成をみせた。

ところが、天主完成から三年目の天正十年(1582)六月二日未明、中国毛利へ出陣途中の明智光秀の謀反により信長公は京都・本能寺で自刃(四十九歳)。

混乱の中六月十五日、天主などを焼失、一夜のうちに落城した。原因は織田信雄が誤って焼き払ったという説や敗走する明智光秀軍による放火という説などが有名。

城跡…大正十五年十月二十日 文部省(当時)指定の史跡となる。

   昭和二十七年三月二十九日文部省文化財保護委員会(当時)が特別史跡に指定。

安土城の桜

 

安土城天主 信長の館 (内藤昌復原)

安土城郭資料館、滋賀県立安土城考古博物館はお休み。

(店と同じ月曜日定休でした)