天守の濫觴 幻の安土城

2021年04月05日

文 内藤昌

安土城 天も地も揺るがすばかりの大工事で完成した絢爛豪華な安土城。当時最先端のデザインと技術をもって構築され、破天荒でダイナミックな天守の建築は、世人の関心を集めた。(内藤昌復原、宇田妙子画)

 天下を正す

 日本の歴史において、変革ののろしをあげながら、自らもまたその劫火にのまれたという最も悲劇的な人物の一人に、織田信長がいる。尾張(愛知県)の「大うつけもの」(『信長公記』首巻)といわれるほどに進取の気性に富み、激しいばかりに「天下布武」をもって動乱の戦国を「天下統一」に導く理想をかかげたのである。新しい時代=近世を切りひらくためには、もとより新しい「天」の構成を具体的に計画する必要があったといえる。 

 永禄十年(一五八七)八月、井ノ口城を落として美濃(岐阜県)を支配した信長はその居城を小牧城から井ノ口城に移すとともに、その名を「岐阜城」と改めている。信長が幼少から学問の師とあおいだ沢彦禅師が、中国周の名君=文王が岐山にあって天下を平定という故事にならって選んだ佳名である。そして「天下布武」の印文を沢彦に発案させたのも、このときのことと考えられている。

 翌永禄十一年九月、崩壊寸前の室町幕府をとりあえず再建するために足利義昭を奉じて上洛、義昭をして将軍の座に据え、傀儡政権をつくる。その際、正親町天皇が信長にあたえた綸旨に、「天下無双の名将」とたたえている件は周知であろう。

 そのかげの権力者=信長をして、なおおよばぬものに改元問題があった。その二年後の四月、十三年つづいた「永禄」にかわる新しい元号がはかられたが、最後まで候補として残ったものに「元亀」と「天正」があった。旧体制の天皇および室町将軍は、信長のおした「天正」に反対して、あえて「元亀」を採用したという。「元亀」を選ぶ積極的な理由がないにもかかわらず、「天」のつく元号を、たとえば先の「天文」の時代、(一五三二~五五)にいわゆる「天文法華の乱」と称された兵乱が続発したことなどをあげて、不吉としてしりぞけている。要するに、時の権門勢家がその依拠する荘園制を根本から否定する戦国大名や町衆の台頭するのを、少しでもおさえたいという悲願がこめられていたものと思われる。それほどに「天」のつく元号には、当時革新的イメージが豊かであったといえよう。

 ついで元亀三年(一五七二)天皇は幕府と信長に改元の勅令を出している。このときも将軍義昭は、言を左右にして改元に必要な資出をしぶり、結局は改元問題を沙汰やみにしてしまっている。先の元亀改元の件とあわせて、信長はよほど腹に据えかねたらしく、遂に義昭に異見十七条を突きつけ、その一条に「改元然るべき由、天下の沙汰」と激しく断じたのである。

 そして翌年、いよいよ信長は将軍義昭を追放、かねての望みどおり、「天正」の時代を現出せしめたのである。「天正」とは、「老子経」にいう「清静は天下を正すとなす」による。

 このまさに「天下を正す」信長の革命意識こそ、上洛以来着々と築きあげてきた「天下統一」事業における、いわばスローガンであったのである。それゆえに信長は、ながらく「天正」の元号問題にこだわったのであり、さらにまたその具体化として「天守(主)の造形を希求したのであった。東海道・東山道、それに北陸道を京に結ぶ近江の中枢=安土山にである。

金花茶壷 安土城完成祝品に見られた壺。黄金色に輝く壺は、いかにも信長にふさわしい献上品

 

 名城の命運

 その安土山は、比叡の秀霊を映す琵琶湖にのぞむ景勝の地である。「遠帆帰帆」とか「漁村夕照」といった日本人にとってあこがれの南画的風景があり、ここに信長は、破天荒ともいえる絢爛豪華な人工美を対比せしめて、新しい時代を築く「天下布武」ないしは「天下統一」のシンボルとして天守(主)を構築しようとしたのである。

 それは、天正四年(一五七六)正月から丸三か年余り要した大工事であった。まず尾州(愛知県)・濃州(岐阜県)・勢州(三重県)・三州(愛知県)越州(福井県)若州(福井県)および畿内の諸侍を動員して、石塁の築造をはじめ、およそ年内にその工を終えている。次いで出身地=尾張熱田社の御大工岡部又右衛門を棟梁に、絵師の狩野永徳・光信父子、金工の鉢阿彌・後藤平四郎といった室町幕府以来名工の名をほしいままにした諸職人を京都・奈良・堺より参集せしめ、建築工事を開始している。そして天正五年八月二十四日には柱立があり、いよいよ十一月三日には、屋上葺合わせている。時に明の瓦工=一観をわざわざ呼んで焼かせているところをみると、唐様(異国風とくに先進文化圏の中国風や南蛮風をいう)にデザインされていたのである。

 かくして天守の完工は、天正七年五月十一日のことであった。この日吉日の由(多分信長の誕生日)をもって、信長は正式に移徒しているのである。この日以降、信長は次から次へと天下人としての施策を多方面に展開してゆくのだが、たとえば、有名な安土宗論が城下浄厳院でおこなわれたのは、五月二十七日である。同時に、安土城の西領の城下町に接する位置に、百々橋を正門にみて摠見寺をおこしている。信長の大叔父=正仲剛可を開山となし、「国中の郡郷を総見する」意をこめての新しい宗教行政を始めたのである。

 さらに翌天正八年閏三月には、本願寺主座と和睦して、永らく続いた石山城の攻防戦に終止符をうつ。天正九年正月には、正親町天皇をむかえて馬揃えを京都で挙行し、「天下布武」の具体的内容を万人に知らしめ「天下統一」を目前にしていることをあらわしているわけである。事実、翌天正十年には、武田勝頼を滅ぼして関東平定をなし、次いで、四国・九州の遠征を計画していた。

 しかしながら、六月二日払暁、例の明智光秀による「本能寺の変」で、信長は自害し、次いで十三日山崎の合戦で明智軍は敗走、十五日に安土城は灰燼に帰すのである。かつて天平のロマンをかけた東大寺大仏殿以上の建設費を要したというこの安土城の大天守が、たった三年の命運しかなかったというのは、まさに「歴史の皮肉」と称しても過言ではなかろう。それだけに安土城は「幻の名城」として、後世、万人の関心をあつめてきているのである。

 「天守指図」の発見

 従前、この幻の名城=安土城天守を話題にするとき、必ずといってよいほどにその根本史料としてあげられるのは、信長の伝記「信長記」であった。

 しかしながら、この「信長記」にも大別すると太田和泉守牛一の記したものと、小瀬甫庵道喜の著したものとの二種があり、前者は俗に牛一「信長記」、後者を甫庵「信長記」として区別する。甫庵は、江戸時代に一世を風靡して、ひろく大衆的人気をあつめたところの「太閤記」の著者であるだけに、信長の行動を主として儒教的封建道徳を宣揚しつつ、多くのドラマを増補脚色している。したがって戦記文学としてはとにかく、すべての内容をそのまま信長関係資料としてあつかうことには問題が多いのである。

 一方、牛一「信長記」は、信長の側近に侍した者の覚え書をもととしており、甫庵本の原典となっていたほどに秀れた伝記的記録、すなわち史料といえるほどの高い信憑性をもっている。

 それにしても、この牛一「信長記」自体にも異本が多く、早くから問題になっていた。少なくとも史料としてあつかう際には、その異本の質を見定める必要が当然にしてあるわけである。異本の数は、伝来経緯が比較的明確なものに限っても、現在三十本余りも知られている。表題も「信長記」の他に、「永禄十年記」「安土日記」「原本信長記」「信長公記」「安土記」「太田和泉守日記」「織田記」等々があり、必ずしも一定していない。

 それで牛一自筆原本ないしはそれに類するものの改めての発見に努めると、前田家伝来の「安土日記」(天正六年から七年八月六日までの残欠)、池田家伝来の「信長記」、太田家「信長公記」が史料的信憑性が最も高いと判断されるに至っている。特に池田家本(現岡山大学蔵)太田家本(現建勲神社蔵)は牛一自筆で、近年国指定の重要文化財になっている。

 これらによって牛一の伝えた安土城天守の形容は、「安土山御天主之次第」と題して、永徳・光信父子描くところの金碧障壁画で飾り、「……何れも下より上迄、御座敷の内御絵所悉く金なり。……」となっているが、残念ながら、建築的具体性にとぼしいという欠点があった。

 さて、昭和四十四年(一九六九)の春。私は建仁寺流大工(日光東照宮を設計施工した甲良豊後守宗広はこの流派)の名門である加賀藩御大工の山上善右衛門の弟子で、のち作事奉行にも出世した池上家に伝わる建築史料を東京静嘉堂文庫で調査中、「天守指示」なる一巻を見いだしたのである。それには「安土城」の名はどこにも記していないが、石垣上一階の平面が不等辺八角形であることや、特に五階が正八角形であることなど、一般の天守には決してみられることのない特色をもっている点から、或は安土城天守かもしれないとの推定をおこなったのである。以来、安土城天守台跡の実測と検証を重ね、加えて先述した牛一「信長記」自筆原本と照合した結果、新出の「天守指図」の内容が、きわめて技術的信憑性が高く、それら史料を照合すれば、安土城天守の復原が、単なる推定でなく、かなり正確に可能になったのである。

「天守指図」地階(一重目)

「天守指図」二階(三重目)

「天守指図」三階(四重目)

(静嘉堂文庫蔵)

 

 安土城天守の復原

 かくて復元した安土城天守の全貌は、複雑怪奇の一語につきる。現存する松本城・彦根城・姫路城天守のように対称性の強い常識的な形態からは遠く、全く非対称のダイナミックな構成を持っている。

 その外観は五層、内部は地下(穴蔵)一階、石垣上六階の計七階の望楼型梯立式の天守である。平面の規模からすると、家康・秀忠・家光の江戸城を別とすれば秀吉の大坂城より大きく、史上最大級であったことは、改めるまでもない。

 そうした異様な外見にもまして、内部はさらに奇抜であった。地下一階(一重目)は東西九間×南北九間(ただし一間は七尺=二・一メートル、以下同じ)の規模で、中央に石垣上三階まで、すなわち四階分の吹き抜けの大空間を設け、その中央に東向き宝塔を置く。宝塔は仏教思想でいう宇宙の中心表現であり、天下統一のシンボルとみてよかろう。

 石垣上一階(二重目)は、東西十七間×南北十七間の不等辺八角形で、複雑な平面を有し、一種の政庁であった。注目すべきは南側「盆山の間」で、神道的空間演出をして、信長の化身として盆石を祀り、その神格化をはかっている。

 二階(三重目)も政庁的機能をもち、東西十二間×南北十間で、東・西・北側に座敷を配する凹凸の多い平面である。先述した地下からの吹き抜け空間には、二間四方の舞台を張り出し、それに面して接客儀礼の諸行事が挙行できるようになっていた。この空間構成は、さながら議事堂か劇場の内部のようで、日本の伝統様式からすればまったく異質で、恐らくキリスト教会堂からヒントを得たものと考えられる。

 次いで三階(四重目)は、東西十一間×南北八間の矩形平面で、南から西側に信長常住の間が、北側に奥方居室、そして東側に応接用の茶座敷があった。それらは、地下からの吹き抜け空間に張り出された回縁によって連絡され、中央に橋までも架けられていた。ここより見おろせば、二階の舞台や地下の宝塔を眺めることができたのである。その上四階(五重目)は屋根裏部屋で、次の五階(六重目)の前室的役割を果たしていた。その五階は正八角形平面で、仏教的な意匠で統一されていた。例の法隆寺夢殿のような朱色の建築である。そして最上階の六階(七重目)は、三間四方の正方形平面である。四周に勾欄がつき、金閣同様に金色仕上げで、内部は狩野永徳描くところの極彩の絵が意匠され、儒教や道教の思想を表現していたのである。

 以上は要するに、軍事的機能よりは思想的・宗教的・政治的機能を優先した結果で、神道・仏教・儒教・道教を包括した「天道思想」の造形である。新米のキリスト教に似て、統一絶対神的存在を、信長自身が志向していたらしく、まさしく「天の主」たらんとした彼のイデオロギーが、「天主(守)」となって顕現されたものと考えられる。この革新性こそが、永く暗い中世社会に飽きた人々に、新しい時代の到来を告げたわけであろう。安土城天守が、世に「天守の濫觴(らんしょう)」といわれるゆえんであり、それゆえにこそ遠くヨーロッパ文化圏にまで知られた日本最初の名建築であったのである。

安土城天守東立面図(内藤昌復原)

安土城天守東~西断面透視図(内藤昌復原)

外観は五層、内部地階穴蔵より石垣上六階の、計七階の望楼型天守。内部は、地階から四階分を吹き抜けとし、その地階中央に宝塔を据え、その上二階に舞台を張り出し、三階には回縁と橋をわたすという奇抜さであった

織田信長画像

将の将たる大器信長は、軍事的・政治的天才であった

「日本発見」 第13号 名城

暁図書株式会社 より

 

安土城古図(大阪城天守閣蔵) 安土城は織田信長が丹羽長秀を普請奉行として築城したもの 天守は5層7重で天守閣建設の最初という

「洛中洛外図屛風」(東京国立博物館蔵・部分) 織田信長の楽市・楽座のおかげで活気づく 庶民の生活ぶりがしのばれる

「南蛮屏風」(南蛮文化館蔵・部分) 中央に十字架をのせた南蛮寺がたち 宣教師やキャピタンたちがそぞろ歩く セミナリオの鐘が朝な夕なに鳴り響いたという安土の城下にもこんな光景が展開したことであろう

上・織田信長の軍旗(名古屋城天守閣蔵) 下・信長所用の紺糸威胴丸具足(建勲神社蔵)

織田信長画像(大雲院蔵) 信長は征夷大将軍になることを奏請したが とうとう容れられなかった

ライバル激突の日本史 4 天下統一の覇者

株式会社 国際情報社 より