小樽の女 ⑥ 有名歴伝(下)

2021年04月14日

題字 寿原秀子さん

カット 高橋好子さん(道展会員)

 

 根強い生命力持つ

 スキーでは名選手を輩出

 

政治、社会、婦人運動の分野には、河崎なつ、井口ゑみ、山元みよ、毛利昭子などがおり、いずれおとらぬ才気でたくましく生きている。

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昭和二十二年は社会党左派から参議院全国区で当選、廿八年まで政治活動を行なっていた評論家河崎なつは明治二十二年奈良県の生まれ。もともとは明治四十五年東京高女国文科を卒業した女学校の先生だった。女高師を卒業した年の四月すぐ現桜陽高校の前身小樽庁立高女に奉職国語を教えていた。当時新築された寄宿舎の舎監をかねたが舎監という言葉から想像されるジメジメした暗さがなくアッサリした人柄とその勉強家ぶりとで生徒たちから慕われた。生徒たちの便宜をはかるため電話局に直接直接カケ合い寄宿舎に電話をひかせたというエピソードが残っている。在籍五年で母校東京女高師の講師となり、東京女子大、津田塾教師を経て社会評論や政治評論などの分野に進出し男まさりの激しい論陣をはった。独身をとおしており、七十歳という高齢のためか最近では第一線を退いて兄の娘と二人で暮らしている。

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明治三十九年創立の庁立小樽高女と大正九年創立の市立小樽高女はそれぞれ前者が保守的な後者がデモクラチックな教育方針をとっていたが道議会議員の山元みよが庁立高女出、井口ゑみが市立高女出というのは両者が同年代であるだけに校風との暗号を示していて面白い。山元は明治四十五年稲穂町で生れた。色内小、庁立小樽高女を出て奥沢小の教諭となり稲穂小に移って十三年間教員生活を送った。その後教員をやめて、明大法科に入学、昭和二十年卒業、道庁で社会教育関係の仕事をやっていた。教員時代は笑顔ひとつ見せないコワイ先生だったが生徒たちからは奇妙に好かれた。

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井口ゑみは大正二年岩手県盛岡市の生まれ、東京で小学校をおえたあと大正十五年小樽にきて市立高女に入った。卒業後は奥沢小をふり出しに天神小、東山中と歩き、昭和二十六年北教組小樽支部書記長から道議会議員に当選した。まじめな人柄で立候補をすすめられたとき、‶イヤだ〟といってダダをこねた以外さしたるエピソードも伝わっていない。毛利昭子は自民党代議士苫米地英俊の娘、津田塾を出た文字どおりの才嬢である。北海道婦人連合協議会の初代会長になったり何度も渡米したり精力的な活動を行なっている。

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小樽はスキー王国であるだけにこの部門では全国的水準の選手をかなり輩出している。なかでも、その転んだところを見たことがないというところから‶起きあがり小法師〟というあだ名をもらった木谷初子が有名である。彼女は大正十五年稚内で生れたが生後まもなく小樽に移った。堺小学校、市立小樽高女を経て東京銀行小樽支店に就職したが戦後やめ札幌の第一師範に入学卒業後小樽東山中学に奉職した。彼女が有名になったのは昭和二十三年から連続三回全日本に優勝するという未曽有の記録をつくった戦後のことでいわゆる‶木谷時代〟を現出した。彼女はいま市議会議員の大原登志男夫人である。彼女の前には小樽女子スキーの草分けで他殺か事故死かで話題をまいた末武姉妹小樽高商教授の娘であった南姉妹があり、後には庁立高女出の寺岡敏子、蛭田佳子、金丸美恵子、大滝はつえらがつづいた。

戦後‶木谷時代〟を現出した木谷初子選手の新複合回転=昭和二十五年二月第五回全道スキー選手権大会から

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これまで十数人の女性についてそれぞれの生きた跡をたどってきたのだが、彼女らの間には何か共通するものがないだろうか。それにはまず第一に鎖国による日本の近代文明における後進性と同等の意味での北海道の後進性をあげねばならないだろう。だが小樽には港町という性格から内、外国を問わず他国との接触が多く、インターナショナルなふんいきが早くから色濃くあったこともつけ加えねばならない。そのようにして身につけた資質が環境とマッチするとき思いがけない開花をみせることがある。後進性を意識すればするほど盲目的な外来文化の吸収度が高まるからだ。北海道文化は雑居文化であり、一本杉文化であるといわれる。きわめて直接的であり、伝統性がキハクである。これまでみてきたように彼女たちはふりかえることをしなかった。ふりかえっても何もないのである。伝統や因習によって束縛されることのなかった彼女らは、これによって自己の行動を批判することが出来なかったのである。だが岡田嘉子、山田順子、小坂順子などは数奇な半生をたどったにもかかわらず、その生き方は不思議な明るさを持っている。雑草○○…化なるがゆえにもつ根……力に起因するのだろう。

 

穏やかな

今日も