小樽の女 ⑨ 

2021年04月17日

題字 寿原秀子さん

写真 松尾正路 氏

 

 生活者の勇気と計算

 底抜けに率直で開放的

 

身体に即した気質があるように、風土に即した身体や気質があると思う。それが生活環境に順応した風習やタイプとなる。

◇…◇

小樽には小樽の女がいる。漁場と商業のいん賑を誇ったこの街の余韻は、まだはっきりと彼女らのうちに生きている。荒海の冒険と風雪のムチ、そして、取り引きの計算にひきしまった活力、彼女らの祖父母が闘いとったこの富の原動力は、残念ながら、発展的な社会遺産とはならなかったが、個人の血のなかに流れつたわり、時にはまったく思いがけない能力となって開発され、近代社会に生き伸び。連絡船で伊藤整に会った花森安治が『ぼくのとこの雑誌の経営者が小樽出身の女性なんだが……』といったので、それを知らなかった伊藤整もおどろいて、小樽女性論に花が咲いたという。小樽の女性が女社長であろうと、私たちはもうおどろかないほど、小樽女性の潜在能力というものを知っている。

◇…◇

いつか晩秋の寒い日に小樽港の防波堤で魚釣りをしていたところ、夕方になって約束の時間がきても舟が迎えにこないので、すっかり寂しくなってしまった私ひとりでどうしょうもなく、そのまま夜明かしするだけの覚悟も決めかねて弱っていると、漁師の老人夫婦が小さなイソ舟を繰りまがら近よってきた。声をあげて事情を訴えると、漁師のおかみさんがもう一時間ほどするとここへもどってくるから、魚釣りでもして待っていなさいと、私にいった。その言葉も調子もぶっきらぼうの命令形だったが、私はこのときほど痛切に小樽女性の親しみを感じたことはなかった。気のせいか、夕方の海であったが、舟をこいでゆく老漁師の夫よりも、そこにすわっているおかみさんの影絵の方に、まだはっきり残っている生活力を見分けることができた。

◇…◇

私の経験は特殊な舞台で、あいては漁師のおかみさんだったが、小樽の女が持っている虚飾のない素直な親しみは、彼女らがその素地として持ち合わせているものではないだろうか。文化人とよばれる活動的な婦人たちでさえ、開放的な、時には底抜けと思われるほど素直で正直な資質を見せてくれる。この素質は、札幌やその他の都市の女にも共通するものとは考えられない。

バルザックは『セザール・ピオトロ』という小説のなかで、主人公の商人の妻についてこんなふうに書いている。

『彼女の知性の限界は決して広くない。つまり小市民の女性タイプである。彼女の献身的な活動力は、まず自分の欲望を押えることから始まるのだが、そうかといって言葉どおりに受けとると不きげんになる。敏しょうで細かいところまで気をつかう彼女の行動力は、台所から会計経理にまでおよび、商取り引きのもっとも重要な問題にふれるかと思えば、リンネルの繕いのことまで目がとどく。しっかりしながら恋することを知っている女で、思想も精神もきわめて単純である。何ごとについても判断を下し、何ごとについても警戒し計算し、未来の設計を忘れることはない。だから、彼女の美ぼうは冷たく見えるが、その素直で新鮮なものが人の心にふれるのである』

◇…◇

私は、バルザックの描いたこの商人の妻に小樽の女の姿がはっきり見えるような気がする。小樽の女は決してただのお人よしではない。生活者としての男気と計算と無邪気な率直さが不思議に交わり融け合ったこの特徴こそ、小樽女の最大の魅力ではないだろうか。小樽の女にはサロン的な優雅の美を求めたり、近代都市の鋭く洗練された知性のかがやきを期待するのは、林の中で魚を捜すようなものである。といって、小樽の女が近代を受けとる感性や知性を欠いているというのではない。彼女らはそれを小樽の女の素地に吸いとり、生かしているのだ。女社長も女歌手もそれを証明している。私はそういう小樽の女たちにも、小樽湾のささやかな潮さいを想像し、感じとることができるように思われるのである。

◇…◇

しかし、それにしても、いま小樽の街に住み育っている若い女の人たちは、もっと発らつとした気力と社会的な訓練を身につけてほしい。店で買い物をしても、喫茶へ出かけても、家庭を訪ねても、あなたがたはどんな喜びや楽しみを男にあたえてくれるのですか。これは小樽の街の古い男たちの責任であると思うが、小樽の女よ、よさを失わないでください。

 

虚飾のない率直な親しみは、彼女らがその素地として持ち合わせているものではないだろうか…(え・森本三郎=全道展会員)

 

(筆者・小樽商科大学教授)

=おわり=

より 

 

松尾正路

「生活は誰の目にも見えるが、人生は誰の目にも見えない。」