小樽港民

2021年09月03日

廣井勇・伊藤長右衛門両先生胸像帰還報告書

発行日 1999年8月4日

編集・発行 廣井勇・伊藤長右衛門両先生胸像帰還実行委員会

事務局 株式会社 石井印刷内 石井伸和

より

小樽港民

 明治41(1908)年6月、11年に及ぶ歳月と総工費二百十九万円をもって、延長1280mの小樽港北防波堤は、日本初の本格的外洋防波堤として完成した。「北海道の物資集散場たるべきところは小樽において他に無し」と国家的大事業として取り組まれた小樽港修築工事は、明治32(1899)年10月から区政がしかれ自治意識が高まる小樽人に、さらなる市民意識の醸成をもたらすものであった。

 暴風雪の激浪によって受ける船舶の被害に悩む小樽の人達は明日の糧に直結し、経済活動が確かなものになることを約束する、港の改築事業に大きな期待を寄せていた。しかし、時代と地理的環境は小樽港をただ小樽だけの港とするものではなかった。多くの築港論、それも北海道やさらには日本全体の港湾整備に言及したものまで多種多様な言論が、新聞紙上に取りざたされたのであった。

 明治28(1895)年11月5日付の北海道毎日新聞は、本格的な防波堤工事に先立つ試験工事に訪れた視察間の談話を掲載した。「・・・築港試験の成績を視察したる当局者某氏の談話を聞くに・・小樽港が全道一の良港となり、西海岸中央の貨物集散となりて市街ますます殷賑を極むるに於ては之に対する市街地の関係は果たして如何あるべきとは誰しも憂慮する所・・・大いに考慮を積まざる可からず」

 このような談話は、二つの視点を小樽の人々に与えたに違いない。

一つは、小樽港の持って生まれた天賦の才、すなわち、全道一という折り紙が付けられるほど恵まれた地理的環境を持つ港というグローバルな視点である。またもう一つは、港と都市整備は一体的有機的に考えるべき性格を持つものという視点である。このような新聞紙上の言論、論説は、小樽の人達に視野広く港を考えることの必要性を認識させたに違いない。そして、実際に眼前に繰り広げられる大型土木機械が駆使される大土木事業は、その認識を確固たるものとし、都市整備に向けた具体的行動の必要性を感じ取ったに違いない。

 いつしか小樽の人達は、自らを「小樽港民」と呼ぶようになった。小樽区民ではなく「小樽港民」であった。港と一体になった都市に生活するものとして「小樽港民」という呼称を自ら使い、小樽の人々はそう呼ばれたのであった。

 当時の新聞記事をたどると、港づくりの進展とともに「公共事業でなされる防波堤建築の恩恵は、公共の認識を持って当たらなければいけない」と、小樽港の多様性とそこに生まれるビジネスチャンスの機会均等を目指す「小樽港民」の姿がより鮮明となってくる。小樽の港は小樽にあるが一小樽のものだけではないという、まさに今日的な視点は、明治の築港事業において生まれていたのであった。

 築港事業百年の節目を迎えるいま、空間的、時間的それぞれの幅広い視点から、議論し、行動する市民としての「小樽港民」が、再び小樽の「みなと」と「まち」をかんがえることが、現代的な課題として改めて問われている。

 小樽築港事業は、日本の近代における土木事業として極めて先駆的なものであった。廣井勇・伊藤長右衛門という偉大な土木技術者によって形成された小樽の港、そして港によって発展してきた小樽のまちの新たな繁栄のために、百年目の「小樽港民」が誕生しなければならないのである。

2021.9.3