小樽人気質

2021年09月16日

小樽波止場移民漂着〈北海道立文書館 蔵〉

「小樽は歴史的に『民の力』が先導してつくられてきた」といわれています。

『民』は人間ですから善も悪も成しますから、悪は騙しや犯罪や陰謀など、後世の人々には迷惑この上ないのですが、善は後世の人々に「がんばろう」と奮起を促し「良いまちをしよう」と社会的傾向につながります。ここでは善の系譜から小樽人の志をみつめてみましょう。

北海道の形成

 日本史において早くから「日本」を構成した内地(本州・四国・九州)から見ると、明治2(1869)年に誕生した北海道はどう映っていたのでしょうか。

明治11(1878)年に明治政府は「全国の罪人を特定の島嶼に流し収監する」決議を氏、選ばれたのが北海道でした。その結果、明治10年代には全国に集治監(監獄)が6ヶ所ある中で、3ヶ所が北海道にあったことから、主に中央政府から見る北海道は、あたかも流刑地の位置づけでした。「島嶼」という言葉からいわゆる「島流し」「流罪」が連想され、北海道は政府にとってやっかい者を閉じ込める島だったとの印象を抱かせます。。

 ところが一方で北海道は鰊や石炭などの資源に恵まれていたため、経済的資源を確保したいことや、ロシアの南下を食い止めるため、軍事的心配をしていた明治政府は、国民を内地から移住させて北海道をしっかりした領土にする政策を打ち出しました。その結果、明治2年から昭和元年まで227万移住が記録されています。このように明治政府は「やっかいな北海道」と「経済的・軍事的に貴重な北海道」という矛盾を抱えて近代化を進めてきました。

釧路集治監〈標茶町 蔵〉

北海道移民荷物取扱所〈北海道立文書館 蔵〉

小樽の形成

 さて北海道への移民搬送は全て船で、主に函館港小樽港港がその受け入れ先でした。ですから日本各地からの移民で形成されてきました。そこで想像してみてください。移民前の人々の気持ちや、移民後のコミュニケ―ションについてです。農家や唱歌などの口減らし、幕末の争いで負けた武そして追われるような境遇の人々でしたから、決して積極的に移住したとは思えません。また移住後はというと、明治には今日のような日本語や標準語が行き渡っていません。青森弁や新潟弁などの方言を本人は標準語と認識していますので、、お互いに何を言っているのかよくわからなかったはずです。したがって生きて行くには「負けてたまるか」と気持ちを奮起させ、「わかるまで」と大声で語るので、必然的に心は攻撃的になります。まして小樽は次第に物流基地になっていくため、物が中心で人は歯車のような労働形態ばかりでした。移住前には内地でまともな教育も受けられず、移住後は歯車ですから、必然的に「あらくれ」になります。大人も子供もです。

 小樽を形成した移民について語った印象深い記録があります。稲穂小学校校長であった稲垣益穂は「何等土地に歴史が無く、隣家の制裁とては針の尖ほども無い土地で、然も内地の失敗者、手あまし者、札付等其土地に居り困しきもののにげこむに極めて便宜的な土地」と言っています。

小樽に集合した移住者達〈北海道立文書館 蔵〉

小樽港民 

 「あらくれ」は悪にもなりますが善にもなります。その志は明治後期から市井で語られ、新聞にも掲載された「小樽港民」という認識です。ミナトがつくられ大きな倉庫が建ち始め、立派な銀行や商店が軒を連ねる中で、小樽人は「小樽はすごい」と感じ「俺も立派に出世せねば」と考え、そのためには「人々に喜ばれることを」と志を立てるのです。当時は小樽区民で、同じように室蘭や釧路でも「港民」は使われていましたが、あえて「小樽港民」と自称したのは「この港は小樽の港であるが、小樽だけの港ではない」と公に思う志が伝わってくるのです。

 明治32年に小樽で初めて小樽区会議員選挙が行われますが、立候補者の一人で商人であった寿原重太郎は選挙演説で「我等小樽港民たるもの」と使い、大きな会社のためだけに公共事業をすべきではない、と叫んでいます。また明治41年に竣工した日本初の日本人だけでつくった小樽北防波堤の指導者廣井勇は、小樽港民の象徴といわれています。

 「小樽港民」という認識は、成功した小樽商人が多くの今日でいう歴史的建造物を建設し、港づくりに携わった人々が防波堤や運河をつくり、「あらくれ」の土壌を牽引する立派な志があったことを物語っています。

北防波堤〈小樽市総合博物館 蔵〉

廣井 勇〈北海道開発局小樽開発建設部 蔵〉

寿原重太郎〈スハラ食品90年のあゆみ〉

小樽志民

 小樽運河保存運動は今日の小樽観光の契機となると同時に、歴史的建造物再生という小樽独自の文化・観光素材を育みました。小樽運河を守る会、ポートフェスティバル実行委員会、小樽運河百人委員会、などの若きリーダー、そしてそれらのシンクタンクとなった若き研究者を「小樽志民」と称したいのです。

 想像してみてください。運河埋立と保存でもめていた昭和50年代、保存派が「運河を綺麗にして観光」「歴史的建造物を改修して残そう」といえば埋立派に「俺たちが使ってきた運河だ」「スクラップ&ビルドの時代だ」と叱られていました。そして「運河埋め立ての約100億円の公共事業こそが高度経済成長に乗り遅れた小樽経済のカンフル剤」とも言っていましたが、運河を核とした観光都市小樽が稼ぐのは毎年1千億円前後にまで発展してきたのです。小樽にとって文化的にも経済的にも「小樽志民」が叫んでいたことが正しかったと歴史は証明しています。

 ここまでの歴史から、小樽は商人や労働者や学者の努力によって立派な街並みに発展し、若者達が歴史的建造物の再生運動をしたことから全国区の観光都市になってきたことが明確です。

第3回ポートフェスティバルのポスター

小樽運が百人委員会の運河保存と代替道路の提案

 

小樽協民

 時代は現在、令和に入っていますが、ここ数年で「小樽市中小企業振興基本条例」「小樽100年プロジェクト」「「日本遺産」「観光税の導入」「DМOづくり」など民間が研究して主導してきた政策は、すでに小樽市の公的なテーマになってきました。これまでの市民の多くは「町内会に外灯を」「家が面する道路の除雪を」など要請や文句を言うだけでしたが、ここに揚げた新たな政策は民からの提案を「官民協働」共通のテーマで、機能分担する関係に進化してきています。このような小樽的傾向を「小樽協民」と認識できます。

 「小樽港民」で種を蒔き、「小樽志民」で肥料を添え、「小樽協民」で花を咲かせるといった、目に見えない系譜が小樽に紡がれているのです。

小樽100年プロジェクト・セミナー 旧三井銀行

 

より

 

昨日は 潮目がよくわかりました

この建物からは

『小樽港が良く見渡せることでしょう。』

 

「人々に喜ばれることを」 との志を立てた 

「小樽港民」という考え

『この港は小樽の港ではあるが 小樽だけの港ではない』

 

『この考えを大切にした建物を設計していることを

アドバイスしていることを(小樽の建設会社が…)

期待して善いのでしょうか。』

 

気づきました?

新潟行フェリー