廣井勇思想の系譜考

2021年09月20日

 この稿は、本運動の過程で、札幌テレビ放送報道制作局次長鈴木栄一氏にお会いした際に、戴いた「礎」というビデオ2点、CD1点の3点セットを幾度か見て聞いた限りにおいて感じた、目に見えない廣井勇の考えていく道筋を追った感想文である。

 まちづくりにも共鳴する多くの考え方を発見したために、あえてここに収録させて戴いた。

 小樽築港百周年記念復刻版「礎」 廣井勇とヒューマンドキュメント

1 「百年を駆け抜けた クラーク魂」近代を築いた男 廣井勇 VHSビデオ 83分

2 「彼方にはフロンティア」アメリカに橋を架けたスゴイ奴 廣井勇青春篇 VHSビデオ 55分

3 「百年先を見据えた男 廣井勇」 CD 60分

1. 土木の世界へ興味

 野中兼山(1613~83)は江戸時代初期の土佐藩の家老で、第二藩主山内忠義(初代は山内一豊)に仕えた。

 地理的に台風の多いという条件が生み出した土佐版生粋の土木技術科である。

 高知県手結港は兼山港とも呼ばれ、漁船被害を減少させるなどの功績が今も残されている。

 ダム・用水路・港の整備に大きく貢献した。

 同郷の廣井は年代こそ違え、その功績に大きな興味を持っていたことは、彼の文献より明らかである。

 兼山の造った「波止」が200年後の廣井の時代に津波から町を救ったという事実も目撃している。

 自然を対象とする土木という技術世界への序章である。

 因みに、兼山の特徴である、内陸に深く切り込ませる造形は、廣井が後に提唱した埋立式小樽運河に酷似しているという事実からしても、多くの影響を兼山から受けていた。

2. 自立への環境

 文久2年に高知県佐川町に生れた廣井は、7歳にして父喜十郎を失う。

 加えて時は激動の幕末であり、今までの社会の秩序が崩れ、方針を失う手探りの時代である。

 社会派方針を失い、家族の大黒柱を失い、頼るのは自分だけという環境に立たされる。

 この実感と確信は札幌農学校の同期生に対しても自らの計画実行に向けて不撓不屈の精神を貫き、ついには、明治初期の日本の近代化の多くが外国人の指導による工事であったにもかかわらず、近代防波堤は日本人廣井自身の市道で完成させるに至るのである。

3. 工学への旅立ち

 廣井が札幌農学校時代の同期生内村鑑三に送った手紙に、「この貧乏な国において民衆の食べ物が足りるようになることなくして宗教を教えても益が少ない。僕は今、伝道を断念工学に入る」と綴られている。

 中国春秋時代の書物「管子」の思想に倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」というのがある。

 廣井の場合キリスト教の伝道の必要性を札幌農学校で確信するのだが、貧乏なこの国の民にいくら美しい心を直接説いても、効果が上がらない。むしろキリストの説を聞く余裕をこの国に造らなければならないという考えである。いわば間接的伝道に他ならない。管子の思想系譜と思われる。

 この思想と兼山の影響から蓄積された土木への興味が重なり、日本が活き活きと活躍できるためには、先ず自然災害を防ぎ、多くの文化・物資を引っ張り込む装置が必要だと感じたに違いない。その装置こそ土木世界なのである。

4. クラーク魂

 明治9年に札幌農学校が開校する。

 日本は近代に入って間もない時代である。何故北海道で、何故クラーク博士であったのだろう。

 北海道は未開で、江戸文化・江戸秩序というものが松前周辺にしか存在していなかった。即ちゼロからの開拓に最も相応しい地域であり、北海道で実験して内地に普及させようという明治政府の考えがうかがわれる。海洋土木・橋梁土木・鉄道など大型の近代化インフラ整備に、明治政府は多くの国費をあてて、それを推し進めていった。

 また当時同じ環境でいち早く世界最先端の技術で開拓されていたアメリカが、世界的近代技術の指導者であったことから、札幌農学校初代教頭にウイリアム・C・クラーク博士が招かれたということは想像できる。

 クラークの名言「Boy.be ambitious」(青年よ大志を抱け)は有名である。

 廣井は工学を志した。

 そしてもう一つクラーク魂には、「学問の基礎を現場に置く」という思想がある。

 廣井は後に「知識人とはものを知ることより造ることだ」と語っている。つまり現場のない学問は学問ではないという厳しい哲学がうかがえるのである。

 このことは、土木という世界の鉄則であり、能書きは地面を何とかすることであるということと、もう一つ、そのためには技術の正しさばかりでなくその技術を具現するためには多くの人の力が必要で、人間を知らなければならないという洞察がうかがえる。

 それは、明治30年から明治41年までの年月をかけて完成した北防波堤の竣工式の際、自分が招かれて、これまで苦労を共にしてきた現場の人々が招かれていないことを知り、自らの預金をすべて吐き出し、彼らを呼んで、当時小樽では全国的にも有名な開陽亭(現海陽亭)から仕出しをさせ、彼らと共に大いに飲んで語る宴を実行したという、あまりのも有名な逸話で明らかである。

 また現場を知るということは、コンクリートへの火山灰混入ということに現されている。加えて土木には完成はなく耐久し続けることの使命まで、自らに課す厳しさが伝わってくる。

 まさにこうしたことは廣井思想の現場を証拠に見せた廣井式伝道である。

5. 友人・内村鑑三

 札幌農学校時代の同期生は12人おり、勿論彼らは官費で全国から選ばれた優秀な学生であるが、その12人のうち、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾は特に親しい間柄であった。そうそうたる顔ぶれである。

 中でも友人内村鑑三は廣井の解説者ともいえる位、彼に大きな興味を抱いていた。

「一緒に確かめようではありませんか、人生は時の流れに漂う一点の塵ではないということを」というホイッチャの詩を送り、廣井の葬儀には「・・・君は其の生涯に於て大工事を数多成就されましたが、それが為に君自身の為に得し処は算ふるに足りませんでした。君の此の住宅其物が此事の善き証拠であります。此質素なる家は小樽・釧路・函館・留萌其他の大築港を施されし大土木学者の住家とは思はれません。自家の産を作るに最も好き機会を持たれた君は、其機会を自分の為に用ひませんでした。廣井君在りて明治大正の日本は清きエンジニアーを持ちました。日本はまだ全体に腐敗せりと云ふ事は出来ません。日本の工学界廣井君ありと聞いて、私共は其将来に就き大成る希望を懐いて可なりと信じます。・・・」という弔文を寄せている。

 また廣井をして「工学的良心」と称している。

 これらの内村の目を通して見た廣井観は、卓越した解説であり、まさにその通りの生涯を送った廣井像が浮かび上がってくる。

 方法は違えども同じ道を歩む内村と廣井は互いに鏡と映じていたと思える。

 不遇の時代に自らの志を立て、一点の塵に帰すことなく、意志を強固に持ち、私のために公を用いず、まさに日本の工学の良心の核と内村には映じていたのだろう。

 廣井の後年の立場において、多くの贈り物やお礼の品々が寄せられる。しかし彼はこれらの受けとることをせず、突き返したり、前にもらったものを次の人に与えたりした。そして「問題はいわれなき物を私が受け取らなければいいのだ」と言い切る徹底した意志があった。

 これが内村がいう「人生は時の流れに漂う一点の塵にはならない」という表現にうかがえる。多くの立場ある人々はこの流れに飲み込まれていくが、廣井はその流れに困惑されずに新たな流れを生み出す原理を心得て、「自分が受け取らなければいいのだ」というように、その流れを少なくとも自分で止めていたのだ。

 まさに「公」のためにやったことに対し「私」から贈物をいただくことは「いわれなきもの」という意志が貫徹されるすさまじさである。

 加えて、「工学的良心」の意味の深さは、まさに現在に必要な概念と思える。

 本来、人々の幸福のために経済も工学も存在するのだが、経済のために存在する工学が、今日あまりにも多くあり過ぎる。この場合の人々とは公人であって私人ではない。つまり私人のための経済の存在やこのような経済のための工学の関係が魑魅魍魎とした社会関係で糾われている。

 どんなにすばらしい技術でも誤った使い方をする可能性に満ち満ちている。これを廣井勇は一身で防いだ「波止」を演じてきた。百年試験管理もそのために違いない。

6. ゲーテ詩集と辞世の句

 廣井が青年時代愛したゲーテ詩集に「涙と共にパンを食べたことのない者は、そして苦しみの夜を泣き明かしたことのない者は神の力を知らないのだ」という一節がある。

 激動の中で幼い勇が父を失い、「涙と共にパンを食べ」「苦しみの夜を泣き明かした」少年時代に廣井は既に志の片鱗を悟っていた。その志の片鱗は彼を偉大なる功績に導いた。この功績を彼自身の手で成し得たという解釈をせず、導かれたという自らの解釈に「神」が存在する。

 そういう姿勢を人生で貫き通すには、人生にはあまりにも誘惑がおおすぎる。しかし廣井はそれらと戦い続け、公人としての足跡を具体成果と自らの生き方で示しだからこそ、「幾年か 浮世の埃を拂ひつ 辿りし道の 先ぞ見江けり」(昭和3年10月1日 享年67歳)という辞世の句が生まれる。

石井伸和 廣井勇・伊藤長右衛門両先生胸像帰還実行委員会事務局長

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