第七章~その一

2021年10月04日

◆国立銀行ラッシュ

 第百十三国立銀行は明治十二年一月、函館に創設された本道初の地場銀行だった。幕末期に箱館産物会所用達をした杉浦嘉七や田中正右衛ら函館商人が資本金十五万出資した。

 「国立銀行」と名前は大仰だが、実態は西南戦争の軍費をまかなうため政府が乱発した、金銀貨幣の正貨と引換えない不換紙幣の償却処分を主目的にした民間会社だった。華士族の秩禄公債も資本金に当てることができたので、本道開拓の初期には全道的にかなりな部分で深くかかわった。八雲開拓を計画した徳川慶勝は第十一国立銀行に五万円を年六分で託し、年三千円の利子を十年間支出して旧尾張藩の移民を保護しようとした。

 公債と銀行の利子で二重にもうけられる、との宣伝で全国的に俄か国立銀行が乱立。百五十三にも達した段階で新規設立はストップ。十五年に日銀だ出来て、三十一年までにすべての国立銀行が普通銀行に転換している。百十三銀行も三十年に資本金五十万円の普通銀行になった。こうした各種銀行ラッシュに小樽がもまれた時代の証拠だろう。

 百十三銀行は小樽進出十五年後、木骨石造の支店を近くに新築した。二つの建物を比べると、十五年間の銀行業務の拡大ぶりがよく分かる。四十一年建設の木骨石造の新支店も旧千秋庵本店として健在だ。=写真⑥

◆金利差でくらす

 商売には元手がいる。品不足で商売繁盛ならそれだけで金利は高くなるのも常識。穂足内村初代名主山田兵蔵が信香に質屋を開業した時の利息は月四歩。年利にすると四八%になるから、ずいぶん高い。明治初期の小樽で、高利貸しが利息天引の月二~三歩、小口高利の鳥金が三~四歩の利子を毎日徴収し、積算利子なので一ヵ月ですぐに元金をオーバーしてしまったそうだ。

 十四~五年ころの銀行は函館で年三割、札幌・小樽は最低二割、最高三割だったと小樽市史にある。横浜・神戸で日歩三銭なのに、小樽は五~六銭と利子が倍近いといわれたのが明治三十三年ごろ。日歩三銭で年利十一%になる。

 日清戦争の賠償金三億六千四百万円が市中に出回り、借金景気に全国が沸いたころは、日銀から借りた金を商人たちに貸し利ざやを稼ぐのが銀行の仕事だった。

 銀行金利は経済の景気につれて変動するが、一般的に定期預金が四~八分、貸付金・手形割引で一銭~四銭五厘程度だったが、三十~三十は預金が七~八分、貸付金・為替手形で四銭五厘~四銭とかなり高かった。小樽商人がよく利用した荷為替は、三十一年で三銭から十銭と利息の幅が大きかったが、輸送手段の安定や商売の信用増加につれ四銭から一銭七厘と低下し、小樽商業における銀行の役割はますます重要度を増した。

小樽商工会議所百年史

発行  平成八年三月二十八日

発行者 大谷昭三(専務理事)

発行所 小樽商工会議所

    小樽市色内一丁目六番三十二号

印刷 株式会社 角印刷所

より

赤灯台に いや 赤灯台の向こうに碇泊中

十分後 行っちゃいました

ヤナギタケ

『これがまた、バター炒めにすると 美味しいんです。』

 

強風が吹いて来たので、出かけました。

明日は栗ご飯♪

アケビ

アケビ酒(2019年仕込み)

またたび酒と共に、店での人気果実酒

巨大ヤナギタケ

『明日は、そばも打たなきゃならないし、ホタテも捌かなきゃ。小樽の秋は、大忙し!』