第七章~その二

2021年10月05日

◆小樽が原点

 札幌の大通に面して本店がある北洋銀行は、大正四年の無尽業法発布を待って寿原重太郎が、甥の英太郎と資本金十万円で同六年に創設した小樽無尽会社に始まる。英太郎は同社の社長になり、初の公選小樽市長になった寿原グループのリーダー。戦時中の政府主導による企業合同で、道内の無尽会社が集まって造った北洋無尽が北洋相互銀行になり、相互銀行の普通銀行化に伴って北洋銀行に衣替えしている。

 小樽に本店を置く地場銀行に焦点を当て、この時期の典型的な銀行の変身ぶりを見てみよう。まず、二十七年設立の余市銀行。漁場の資金供給を目的に、国の重要文化財に指定された旧下ヨイチ運上家の経営者だった林長左衛門と、平磯岬上に移設された銀鱗荘を造った猪股安之丞の二人が資本金十万円を出し、漁業者の着業資金を主力にして余市に設立したしかし、小樽支店長が土地投機に失敗して、経営がおかしくなる。

 三十年九月に本店を小樽に移して、資本金を五十万円に増資し小樽銀行と改称する。頭取は三十六年から五代目小樽商業会議所会頭を三期勤める添田弼、三十一年から二代、四代会頭をやる高野源之助が取締役に入る。古平と増毛に支店を設け、三十九年には北海道商業銀行を合併して北海道銀行になる。余市→小樽→北海道と、名称が段々と大きくなっている。

 商業銀行は屯田兵の積立金をもとに、二十四年六月札幌に設立された屯田銀行が前身。三十一年小樽に本店を移し、札幌、岩内、江差に支店を置いて、三十三年に道商銀と改称。三十六年に経営の悪化が表面化して、園田道長官が政府・日銀に救済を求める。日銀の管理下で整理に入り、小樽銀行が乗り出した。資本金百万円を二十五万に減資して欠損の穴埋めに充て、資本金五十万円の小樽銀行と合併し、七十五万円の道銀に生まれ変わった。当時の小樽商業の力を物語っている。

 この道銀は戦時中に拓銀に合併されており、現在札幌市中央区大通西4丁目の角に本店がある現在の道銀は、全くこれとは別に戦後の二十六年三月に創立された。

◆踊る貯蓄銀行

 日清戦争後の賠償金ブームのなかで全国各地に小銀行が乱立したが、その反動で全国的な不況に見舞われたのが三十~三十四年。三十四年春の金利低下から銀行整理が始まり、小樽貯蓄銀行が破綻する一方、呉服商の向井嘉兵衛が中心になって資本金二十万円の中立銀行が小樽に誕生する。小樽本店の地場銀行は三十四年当時の四つから、三十九年には中立と道銀の二行に減っている。

 業務普請の札幌・江差両貯蓄銀行と松前銀行が合併して、三十九年には江差銀行も合併する。四十年八月にはその江差支店で取付騒ぎが起き、日露戦争後の好況時の放漫経営もたたって四十一年五月に支払停止。政府に泣き付き、拓銀の梃入れを受け四十二年に拓銀貯蓄銀行と改称。大正十一年の貯蓄銀行法改正で北門銀行と改めて商業銀行になり、貯蓄銀行業務を北門貯蓄銀行に分離している。

♦拓銀の誕生

 農工業向け長期融資をする日本勧業銀行が二十九年に生まれ、本州各県ごとに農工銀行が誕生しているなかで、政府の保護・管理課の特殊銀行として北海道拓殖銀行が設立される。三十二年に法案が国会を通り、翌年四月に札幌本店、十一月に小樽支店がオープンした。

 設立委員に小樽から倉橋大助、広海仁三郎、高野源之助の三人が参加。当時、本店が道内の銀行は十三。小樽・函館に各三。札幌・江差が各二、あとは寿都・松前・根室に一つずつだった。

 拓銀小樽支店は四階建ての新社屋だった。『拓銀十年市史(明治四十三年刊』にどっしりした、さも銀行らしい石造の建物が載っている=写真⑦

 土地を担保に農民に融資したので、全道の農地の半分近くが拓銀の抵当に入っていて、自分が所有する農地も一万町歩に及んで、‶日本一の不在地主〟になっていた。『多喜二と小樽』に拓銀史と北海道統計書から作成した数字が載っている=表③

 現在色内一丁目の十字街の一角に残る旧拓銀の建物は大正十二年に、札幌の伊藤組が施工した鉄筋コンクリート四階建て。一階に交差点に面した部分にギリシャ風の柱が立ち、豪華客船をかたちどったホテルからペテルブルグ美術館に変身した。=写真⑧

より

 

今日、雷のような?演習の音のような?

『大きな音がするな!』

と、思っていたら

「火事です、煙が上がっています。」

と、こちらの家の工事をしている大工さんが、皆さんに教えていました。

道路に出てみたら、もうもうと空に煙が上がっていました。熊碓神社方面でした。

ヘリコプターも3機やってきて、暫く旋回していました。