第3節 銀行

2021年10月07日

銀行の開設

 小樽の金融は個人金融に仰いでいたが、明治十一年第四十四国立銀行が支店を設置してから、第六十七銀行・三井銀行等が支店を設けたため、粗大に取引が円滑且つ活発になつて行つた。

 北海道で最初に銀行業務を行つたのは開拓使の御用金を扱つて北海道の金融を独占していた三井組だつた。三井組はそのために明治六年札幌に支店を設けていたが、明治九年国立銀行条例改正と共に三井銀行を設立し、七月、函館及び札幌支店を三井銀行出張店として、預金・貸附・割引等の一般の銀行業務を開始したのである。然し依然として公金の取扱が主であり、支店の配置は官金出納に便宜なように主要官衛の所在地であった。出張所を小樽色内に設けて漁業者に資金を貸付する様になつたのは明治十三年五月のことであった。

 小樽では明治十一年、第四十四国立銀行並に第六十七国立銀行の支店が設けられていた。第六十七国立銀行は山形県鶴岡町に本店を持つ資本金二万円の銀行であつたが、藤山要吉の斡旋によつて開運町に支店を開いたものであつた。藤山はその支配人として活動したが十七年本店の都合で閉店の止むなきに至つたため、藤山は両替店を開いて残務を取扱う事二ヶ年に及んだ、青江理事官「北海道巡回紀行」に「又十七銀行は大火後不振のヨシ」とあるのは六十七銀行のことだと思はれる。

 第四十四銀行は大蔵大輔の地位にあつた岩崎轍輔が士族の金禄公債を集めて十一年八月設立した銀行であるが、北海道の投資に力を注ぎ、直ちに函館・札幌・小樽等に支店を設けた。小樽支店は山ノ上町(開陽亭の十間程上)にあり、支配人は倉橋大介であつた。漁業者への融資を主とし、一円及び五円の小切手と称して紙幣と同一価格のあるもの数万円を発行し、第六十七銀行と協力して制規の利子に手数料を見込み、当時普通金利が五分乃至六分であつたのに、二分二厘若しくは三分の低金利で融通し大いに金融を助けた。然し轍輔等の積極政策のため業務普請に陥り、十五年には第三国立銀行と合併するの止むなきに至り、北海道の営業はために第三国立銀行に継承されたが、十六年山田銀行が函館に設立されるとそれに譲渡された。

 山田銀行は越前の富商山田又佐父子の経営するもので、設立と同時に小樽堺町に支店を設けた。資本金十万圓。本店を函館に置き、支店及び出張所を小樽・根室・札幌に設け、主として大蔵省及び農商務省管理局の現金取扱をなし、兼ねて一般業務を行つた。

 なお小樽には第三十三国立銀行の出張所があつたが、これは主として幌内炭山の用達を任としていた。当時函館には第百十三国立銀行・第百四十九国立銀行が本店を持つていたが、小樽は未だその力がなかつたのである。

 銀行は出来ても利子は中々高く、横浜・神戸等で日歩三銭内外の時も小樽では五、六銭だつたという。

~小樽市史第一巻 第二編 開拓使及び札幌県時代 第十二章 より

 

山からのご褒美 は

大きな落葉キノコがあるな と 思って 近づいたら

『金茶山猪口(キンチャヤマイグチ)でした。味にくせもなく、歯ごたえが良いんです。』

しかも 4本も

左から

アミハナタケ ハイナグチ(落葉キノコ) 金茶山猪口