入婿模範生 木村円吉

2021年11月27日

 

 小樽商工会議所の現会頭、木村円吉一家はこの地元の港町ではやはり毛並の勝れた素封家である。たとえば円吉の姉キミの夫は今年五月東京に去った小樽商大前学長の大野純一、妹イクは緑町の松下恭二弁護士に嫁している。津軽の一寒村から単身北海道に渡って鰊漁場を営み、呉服商、回船問屋、倉庫業、地主と儲かる仕事は殆んど手をつけた事業の鬼ともいうべき二代目円吉の築いたヤマシメ城(木村家の屋号)の偉力が、何時か木村一族の人的機構をハイ・ソサエティに押しあげたといえよう。

 いまの円吉がくだけた話し方をすると、その言葉には僅かながら訛のあることが判る。決して歯切れのいい標準語ではない。ない筈である。今日の木村家の創始者ともいうべき大工の円太郎は青森県東津軽郡一本木村字大泊の出身であり、漁場として落着いた浜益には殆ど同郷の人間が集まった。よそよそしく綺麗に整った都会的標準語よりもローカル色の滲む方言はある種の親近感を憶える。尤も現在の円吉も温厚で腹黒さのない人柄は木村家の血統でもあるようだ。

 木村円吉と一口にいうが現在の円吉は三代目で今日の木村家の基礎を築いたのは始祖円太郎と二代目円吉である。

 木村家の系図を辿ってみると不思議に女性が多く、男子は数える程しか無い。然もみな若くして没している。多分に母系家族的だ。従って活躍した二代目円吉は入婿である。木村家の血は多くの娘たちが婿養子を迎えたり、優秀な逸材と結ばれることで次第に拡散していった。

 二代目円吉は幼名を百太郎といい、松前は福島の漁家花田伝七の三男で明治二十五年、二十二才のとき円太郎の孫娘ミヤの婿養子となった。二人の月下氷人は鬼鹿でやはりこれも漁業を営んでいた金沢友次郎で伝七が鬼鹿にも漁場を持っていて往ききしていたことから知己となって木村家への橋渡し役を買った。

 では円太郎は子無しだったかというとそうではない。幼名円司という、つまり二代目円吉がいたが、北海道には渡らず青森で呉服商を営んでいたが、例の弘前五連隊が八甲田山で冬季演習中に凍死した事件のあった年、四十代で物故している。

 始祖円太郎は天保元年の出生で最初(弘化三年)増毛で刺網による鰊漁を営んでいた。ところがこの頃の増毛運上屋の支配人が浜益に有望な漁場がある…と勧めた。彼はまず浜益に行って土を持ち帰り、増毛の土と一緒に親善に捧げてオミクジをひいてみると「浜益大吉」の封がでたので浜益進出を決意したといわれる。なにせ青森から浜益まで一カ月の日数をかけて船旅をするという時代である。科学的に漁場の良し悪しを区別する術もなく、総ては神仏の加護に頼ったとしても笑えぬ昔々のことであった。

 勿論、円太郎は鰊どきだけ浜益にきて漁期が終れば再び青森に帰っていた。二代円吉が養父円太郎と行をともにして増毛に毎年くるようになり、浜益郡群別村に漁場を作ったのは二十五才のとき、安政元年である。

 この頃の北海道は「人跡稀ニシテ至ル所荒廃、舟棋ノ便ナシ。特ニ群別ノ如キハ人家見ルコト能ハズ、住ムニ家ナク食スルニ湯ナキノ艱苦…」(小樽百選立志編)が続いた頃のであった。当時の刺網漁法は和人の土地で貴賤の別なく、その分限に応じて貧しいものは一放し、二放しの規模に甘んじ、金持親方は百放し、二百放しと建てた網は袋状ではなく、平面だから鰊は網目一つに一尾だけかかる仕組みで、別名蓑がかりと呼ばれていた。二代円吉が祖父を手伝うようになってから建網に変ったが、三倉家に秘蔵されている鉛筆書きの「木村円吉伝記」にはこの建網は円太郎と二代目円吉が考案したものだと記されている。

 建網というのは建場、小舌、前繰、手綱の五種からなっており、綱の三辺は小舌綱に連接し、上部の一辺はこまい網目(ハツピャク)をつけて袋網につなぐ。小舌網は中央の九枚が建場の下に続いて底となり左右八枚は建場の左右両辺に綴って垂直の垣根とするわけ。前繰りは小舌の一端に結んでその上二木作りのウキをつける。小舌網はミゴ網の四寸目を使って左右の脇に中央から下を離してつけ、上に木のウキを三個下部にアシを三尺に一個づつつけるのが常識とされていた。

 当時の鰊漁獲高は豊凶増減はあったが、安政三年から元治元年までは平均して年に四万余石をとり、降って明治二十年頃から二十八年には二万三千石程度に減っている。

 浜益一円の豊漁時代は明治三十六、七年から四十年までの五、六年で全村約十四ヶ統の建網が定置されて毎年四、五万石の漁獲があったが、木村家の豊漁記録は大正五年から約七年の間で平均五千石、大正九年から同十一年までは実に六千六百石と水揚げしている。

 雄冬岬に雪肌が輝く春、うねりの高い日本海にソーラン節と大漁歌が高らかに流れる度に木村家の資産はみるみる膨れ上っていった。

 郷里大泊に本邸、青森市大町に呉服店、小樽に支店、浜益に漁場をもっていたヤマシメ一家が小樽に本拠を移したのは日清戦役のあった明治二十七、八年頃である。

 現在の港町にある木村倉庫が建ったのもこの頃で回船問屋を開業したためである。内地から荷主が帆船に積んできた米

 小樽市内に厖大な土地を持つようになったのは、明治三十二年頃で、塩田安蔵が土地を担保に木村家から一万円を借り、そのまま病没したため、円吉が追銭一万円をさらに払って取得したのが始まり。かれはさらに地続きの場所を三円七十銭で時の道銀から買入れた。

 明治三十七年、日露戦争勃発の寸前、浜益の漁場は豊漁で十万円の収益をあげたので時の道銀頭取添田弼の斡旋で三井銀行から二十万円の融資を受け、円吉は道内各地の土地を買いまくった。貸地業木村円吉といわれるわけである。

 いまの稲穂町の北海ホテル、マルヨ野口商店の建っている土地も総べて木村家のもので当時坪六円五十銭の割で二千坪を道庁吏員辰野宗蔵(金子元三郎区長の頃、助役候補になった人物)から融資した担保物件として取得したものである。

 円太郎の物故したころの木村家の資産は当時の金で百万円と称せられたが、二代目円吉はこれを六倍にふやした。浜益漁場ばかりでなく、十勝の川西郡川西村に大森林や農場を持っていたからだ。

 同じ時代、春告魚ニシンの恩恵を蒙って財をなしたものには藤山要吉(道北)金子元三郎(離島)田中武右衛門(浜益)井尻静蔵(厚田・石狩)猪股忠司(宗谷)白鳥永作(祝津・枝幸)青山政吉(高島)茨木与八郎(祝津・雄冬)らが挙げられる。

 鰊は豊漁、小樽港は日進月歩の繁栄途上にある。どんな商売でも面白い程儲かった古きよき明治の頃だった。

 だが富んで驕らぬ温厚篤実の人円吉は浜益では神様のような存在だった。有り余る資力を蓄えても偉ぶらぬ人徳がそうさせたのである。同家の伝記には次のように記されている。

 「温厚篤実、義理人情ニ富ミ、浮華軽佻ノ風イササカモナク、虚栄ニ駆ラレテ名誉職ノ椅子争奪ニ心身ヲ労スル如キハ皆無、己レハ入婿ノ身ナリ、ヤマシメノ財産ハ一銭一厘タリトモ減ジテハ先祖ニ申訳ヶナシ。寧ロ増殖シテコソ養子ノ責任ガ果セルト常日頃ヨリ口ニスル所」

 確かに商道には懸命に励んだが、円吉の得た土地、山林、農場などその一つ一つを挙げるとがめつく買収したものはない。いずれも相手方より借金を申込まれて、人情に富む性格から要求通りに金銭を貸し与えると、相手が無理やり担保物件として押しつけたものも少なくない。

 「無理をさすまい無理すまい」

と家門を守り、敬神崇仏の念を篤くして只一途にノレンを守り蓄財に心がけたその人柄は山本厚三代議士も掛値なしに買っていたといわれる。

 その昔、和服のカナザクリ(黒木綿の圓砲袖)に白〇〇の海楽帯をしめ、無尻外套に下駄ばき。竹行李に振分け荷物で津軽の荒波をのりこえ、大時化にあえば江差海岸に雪穴を掘って舟を囲った程の困苦と斗った二代木村円吉はこうしてヤマシメの店を大きく発展させた。その円吉の四男顕三がいまの木村円吉その人であり、お坊ちゃん育ちで純情だなどと陰口をきく経済人もいるが、会議所会頭としての良識は高く評価されている。

 彼は「木村倉庫の社長であると同時に会議所の会頭でもある。私は、小樽発展の為の良策と認めた以上、家業に響いてもそれは致し方のない場合もある」と駆けひき抜きに心情を吐露する。矢張り血は水より濃い。父円吉の高潔円満な人柄が、文字通りその名のように当主円吉にも受け継がれているのだろう。

~続・小樽豪商列伝

里舘 昇

月刊 おたる

昭和42年8月号~44年6月号 連載より