まじめ 仲買人 稲積豊次郎

2021年12月12日

「劔〇を提げて軍陣に臨む男児、もとより屍を戦野に曝すの覚悟なかるべからず。故に身を軍籍に置くの士は、精鋭の意気迸るの余り、多くは粗苦に陥り易く、隊を出でて農商の業に帰すの後と雖も、惰力のなす所、容易に停止する能はざるものあるを見る…中略…能く平和の間に寝め簿冊を整理して貸殖の頬に耐ゆることを得んや。而もよく之を能くする稲積豊次郎氏の如き者、それ甚だ稀なりと請うべし。」

 

 真面目こそ成功の秘訣としてその最も典型的な人物と世間からみられていた稲積豊次郎は日清戦争に参加した歴戦の勇士だった。だが冒頭の記のように梶川梅太郎が明治三十六年十二月に著した「北海道立志伝篇、第二巻」の中で、豊次郎は戦勝によって威張り散らした他の多くの凱旋勇士とはいささか趣きを異にしていたようである。

 当時、眠れる東洋の獅子と恐れられていた清国を、鎖国の制度を断って僅か二十有余年の名もなき小国日本が敗った。無事生命を全うして旗鼓歓迎の渦のなかに帰国した兵隊たちが胸を張ったのも判るような気がする。

 別して筆者は昭和二十一年暮、シベリヤの俘収容所から無事復員して帰郷したが、肩身の狭い思いでひっそりと家の戸をあけた記憶が甦る。

 

 閑話休題。小樽市堺町五一の稲積倉庫株式会社の現社長猶氏が父豊次郎から仕事の一切を委せられたのは大正末期。以来、ほぼ半世紀に近い四五年の星霜が流れた今日、稲積倉庫は同業のうちでは水際線に遠のいた中小企業の部類に属している。一、二年前、小樽倉庫協会の間で弱小業者だけが集まり、協同組合を結成して新設の第三埠頭延長部分に進出しようとの機運が盛り上がったことがある。稲積倉庫も一旦は出資仲間に加わりながら、投資額の少ないことが判ると、躊躇らわず脱退の意志を明らかにした。

 これが昭和の初め頃で、三二三七円もの税金を納めた老舗の今日の姿である。だからといって現社長猶氏が商売下手だというのは当らぬ。時代時節で時間とすう勢がもたらした偽らぬ現実なのだ。明治、大正の時代にわが世の春を謳歌した多くの老舗が、少なからず同じ運命を辿っている。

 

 米穀仲買人、倉庫業、牧畜業 などを手広く営んで資産を築いた稲積豊次郎が小樽区稲穂郡十四番地に腰を落着けたのは明治三十年、いまの産業会館のある辺りだ。豊次郎はこれが小樽にきた初めではなく、それまでにもちょくちょく来道して小樽こそ発展間違いなしと着眼していたのだ。その着察は明治二十四年頃からである。当時の小樽は「寂〇ナル一漁村ヨリ急激ノ発達ヲナシ、僅カ二十年間ニ於テ日本有数ノ良港ト化スニ至リシモノ、ワガ小樽港ノ如キハ全国殆ンド比ヲ見ル稀ナリ。北海西半ノ咽喉トシテ船舶ノ出入リ頻繁ヲ極メ、貨物ノ集散又甚ダ急ナリ」(小樽百選立志編)

 と形容される程の繁栄途上にあった。既に住の江町が遊廓指定地となり貸座敷もふえ、見番も生まれて丸辰、南部屋などが有名だった。名妓糸八と美代吉が線香代一本二十銭の稼ぎを毎月千七、八百本も売って妍を競ったのもこの頃から毎時末期にかけてであった。

 豊次郎は文久元年八月十五日富山県は高岡市横山町の米穀肥料を扱い、酒造りも営む稲積史郎兵衛の三男に生れてい幼い頃からとに角真面目で素直な子だったとみえ、よく父母に仕えて孝養を尽した。

 明治十五ねん五月名古屋鎮台金沢文営歩兵第七連隊に入営、その真面目な軍務が認められて、翌十六年九月に選ばれて陸軍教導団に入り、更に陸軍歩兵伍長、判任官である。それから五年間を兵営で過しているが、この間東京陸軍戸山學校射撃科を優等で卒業して共感を勤めているし担架術も身につけている。明治二十二年の除隊のときは、極めつきの模範軍人だったというわけ。

 石橋を叩いて渡るような堅実な真面目商人となって、小樽に落着いてから二年目、彼は厚田郡厚田で鰊漁に手をだしたが、これはものの見事に失敗した。

酒造家の倅で射撃のうまい優秀な軍人になったかは知らぬが、北海の荒海で鰊相手に一儲けと考えたのはいささか冒険すぎたようである。

 ところが明治二十七年十一月征清の役が起り、豊次郎も後傭歩兵第十六連隊に召集されて戦場に出撃している。幸い無事凱旋し、賞勲局から金四十五円也を下賜され、慇々小樽に本腰を据えた。明治三十一年十一月、漸く冬の気配を濃くする厳寒の頃だった。

 ‶赤いダイヤ〟の小豆や‶黄色いダイヤ〟の数の子などで儲けた高橋直治はまだナンデモ屋の多角経営で八面六臂の稼ぎに席のあたたまる暇もない頃のことで、漸く米穀株式外五品取引所の理事長におさまって数年後の時に当る。

 既に小樽港は特別輸出港の指定を受け、室蘭、夕張線の鉄がついて小樽商人は次第にその商権を拡張している頃だった。港ではかの広井勇博士がピストルを懐ろにして北防波堤を建設するべく悪戦苦斗をしていた。

 豊次郎は商利というものにはチャンスがなければならぬ。その機会を見出すには自ら敏活でなければならないから、これを試すには仲買人が最もいいだろうと着目、小樽米穀取引所の仲買人となった。この頃日本中は日清戦争後の好況に見舞われ、あらゆる事業が勃発したので、輸入超過となって正貨が海外に流れたため風呂賃から豆腐の果に至るまで諸物価が騰ったいきおい資金の需要がふえ、やがて金詰り、関西方面では支払停止の銀行もでるほど、経済界が不穏になった。失業者が多くなる。物価は上る一方。しかも北海道近海の鰊漁は七二〇〇石という不漁で、加えて三十年の不作の影響で白米一石が二十円五銭とはね上った。戦後の好況変じて金融欠乏の不況に陥ったのである。

 このような推移のなかで豊次郎は巧みに商機を掴み、健脚をふるって泳ぎ廻ったため、数年を経ずして頭角を現わした。小樽に初めて株式会社が生れたのは明治二十四年春で沼田喜三郎が創設した共成株式会社だが、豊次郎はこの会社の株を初めとして小樽取引所、中立銀行、拓殖銀行などの株を次々と買占めなかでも漁業会社については遂に社長のポストにつくほどの敏腕ぶりを発揮した。

 こうして湊町(当時は港ではなく湊であった)に倉庫と居宅を建てた彼は爾来、大正、昭和の初期にかけて資産七十万円の蓄財に成功したが、この頃の儲け頭が馬鹿の一つ憶えのように政界に躍りでて区長選挙や区会議員に争って出馬しようとした風潮のなかで、彼だけは生来の真面目人間ぶりを頑なまでに守り通して一度も政治畑に顔をだしたことはなかった。

 性格的にはおとなしい男だったが侠気があり、博愛の精神に富んでいた。明治三十三年六月故郷高岡市が大火に見舞われるや、その頃の金でポンと五十円を惜しげもなく送って義援金としたほか、公共事業にも深い関心をもっていて、神武天皇降誕祭や日本体育会などには惜しまず寄附を続けている。このため体育会会員として時の二条公爵から褒辞と木杯の賞を受領しているし赤十字社正会員として仂らきもかなりだったという。

 いわば真面目な軍人上りの相場師だったわけだが、かならずしも投機を好んだ人とはいえないようで、そのことは厚田でニシン漁に手をだして一度失敗するや、二度とひとおこし千両の夢をみなかった一事でも伺える。額が広く禿げ上った羽織姿の豊次郎の写真はいまや茶色に古びているが、子息猶氏の面影を通じている好男子ぶりは、軍服をきて北清の野に転戦した勇士が今日でも思い描かれる。

 稲積豊次郎ばかりでなく、開拓途上の明治北海道は本州内地にあって頭うちの暮しにあきたらぬ人々にとってまさに起死回生の新開地であった。いまでこそ花園町は小樽一の繁華街として商店と歓楽街が隣接すると真に変貌しているが、明治三十年頃までは人家の数が暁天の星よりも少なく、一帯は谷地と小丘ばかり、平坦地は殆んどなかった。

 古老の話によれば大正時代でさえ、大八車をひいて手宮に向かう切割りを通過するときは、車を解体して運び、手宮町に入って再び組み直して物を運んだという。

 堺町取引所を中心として無尻外套に舶来のゴム長靴をはいた仲買人が「売ったァ」「買ったァ」と喚きたてて右往左往した石畳は馬車の轍ののる所以外は脛まで埋まる泥地であった。一旦この泥地に轍をとられたら大変、屈強の馬さえ息をきらしてもがいたという文字通りの新開地港オタルであった。省みて終戦後の小樽をみるなら、さきの小樽百選の冠頭記を真似て述べたら次のようになるだろうか。

 「殷賑ナル一大貿易港ヨリ急激ニ凋落シ、僅カニ二十年間ニ於テ道内有数ノ閑散ナル港ト化スニ至リシモノ、ワガ小樽港ノ如キハ他ニ例ヲ見ザルナリ。裏日本ノ不利ナル条件ノ故ニ、船舶ノ集散又甚ダシク無シ。港湾ニ関リヲ持ツ関係業者、イズレモ手ヲ〇(手偏に共)キ、天ヲ仰ギテ長嘆息ス」

 軍人上りでも成功した且ての繁栄小樽を今一度再現できぬものであろうか。

 

~続・小樽豪商列伝(3)

里舘 昇