インテリ商人 稲葉 林之助

2021年12月16日

 札幌沿革史(明治三十年刊)の中に札幌と小樽の商人を比較した一文がある。「小樽商人は物事進取の気性に富み、果断にして性磊落(らいらく)なり。常に胸襟を開きて談笑し、更に隠蔽する所なし。之に反し札幌商人は一朝にして大廈(たいか)を倒すものなき代り、一夕にして巨万の富をなすものなく、性着実温厚にして猛進せず。只其弊やとかく不活發に流れんとする傾向あり。人と相談するにも胸間常に一枚の幕ありて互に心中を打ち明くることなし。為に商機を失ふこと少なからず。小樽商人は駿馬の如く札幌の商人は牛の如し」

 現代の小樽商人が読んだら甚だくすぐったい表現である。駿馬も老いれば駄馬となる。且ての小樽商人の心意気いまいずこという所だろう。

 この商機をみるに敏な商人の集まりのなかでも殊に小樽実業談話会というグループは冴えていたようだ。明治三十一年八月色内方面雑貨商旅館などの若手経営者が中心となって生れた。いわば今の青年会議所会員とでもいえようか。この頃の実業青年グループは、商法典その他商事の法令を研究し、港内実業家の和協親睦を図り、その利益を増進することの三つの目的を目ざして会合も頻繁に開いた。

 

 小樽倶楽部を建設して集会場とし、政治的には公民会を結成議員も区会に送って港内埋立ての区政問題と取り組んだが、この中堅に谷伊六、寺田省帰、磯野進、篠田治七、寿原重太郎、名取高三郎らがいて、本篇の主人公稲葉林之助も加わっていた。この公民会は四十一年に解散したが区会のなかの色内組と称されて三年後の四十四年には改めて茶話会を結成している。茶話会はさらに公正会となり、大正に入って昭和会と改称された。

 一方では鉄道景気が山から小樽の町を景気づ、また一方の海からは三菱、共同運輸の海運合戦が小樽を利権拡大の重要拠点に押しあげていった。

 

 稲葉林之助は明治四年、愛知県常滑市の帆前船・船長の長男として生れた。親父が船乗りだったので自分も大きくなったら七つの海を渡り歩こうと夢みて高等商船学校にまで入ったが、生れつき身体が弱くて中退した。親父は林之助の船員姿を期待していたらしいがその希望には遂に応えられなかったわけである。

 船には乗れなかったが横浜の船具商鈴木市三郎商店に入社した。ここで商人道を徹底的に叩き込まれた。店主の命令で何度か来道商況視察を繰返したが、活気の漲る小樽港こそ永住して商売するにふさわしい町と見て独立の決意をした。

 明治二十六年、彼は店主市三郎の長女を妻に迎えて色内町に船具商を開店した。日清戦争の始まる一年前のことである。

 もともと船乗りになる程頑健な体軀の持主ではなかったが生来頭の回転は早い方だったし、学究肌で福沢諭吉に心酔した男である。それに話術が巧みだった。いわば内地で喰いつめて八方破れで小樽に集まってきた多くの一旗組のなかではインテリに属する知性派商人だったといえよう。

 船具や鉄製品などを売って商売に励んだが、その商法は割と手堅く、一切現金主義で手形を書くことを嫌った。この経営法が図に当って段々と得意先もふえ商域を拡げていったので、店員の数も次第にふやした。使用人はみな故郷の愛知県から血縁のものや、身元の明らかな知人の子弟に限って採用した。

後の中央バスの重鎮となった杉江仙次郎も林之助の従兄弟だったところから招かれてゐなば焦点に勤めるようになったが、信用されて支配人にまでなって用いられたのはずっと後のことである。

 明治三十二年十月、小樽は函館、札幌と並んで区制がしかれて文字通り自治体として一本立ちになった。この区制は「区の住民たる公権を有するものは市制とほぼ同じく、独立の帝国臣民の男子で、三年間区に住み区内で地租年額五十銭以上、または直接国税年額二円五十銭以上を収め、若くは耕地、宅地三町歩以上有するものとされた」(小樽市史)

 初代の区長はご存知金子元三郎。大阪第四区から代議士にも当選したことのある奇行の人、北門新報主筆中江兆民を小樽に招いたのはこの金子元三郎だ。第二回の区会議員選挙で当選した議員のなかに猪股孫八、山本厚三、小町谷純、森正則らと並んで銅鉄商稲葉林之助もその名を連ねている。

 林之助が区会議員を勤めたのは一期だけだった。商人が政治に関係すると必ず不純なものに介入することになるという潔ぺきな性格が、彼を政治家として羽ばたかせなかた。大体、小樽で豪商と伝えられる多くの人物には二つのタイプがある。分限者として巨萬の富をかち得た成功者か区会、道会と進出して自ら政争の渦中に投じて政治家の名をほしいままにしたもの。最後まで商道に生き続け、子々孫々に至るまで政治運動を禁じた商人の二様である。林之助は一時は区会議員を勤め、学務、小樽港改良工事臨時委員や区財政調査港湾調査の臨時委員を兼ねたこともあるが、これは明治末期から大正十年頃までの間だけであった。

 むしろ彼の活躍は現在の集鱗冷蔵株式会社の草分けともいうべき製氷会社を創って小樽の冷凍業界のはしりとなった。明治三十二年には北海道凍氷株式会社が入舟町に資本金三万円、払い込み金七千五百円で四月八日に設立された。このとき社長は村林己之助、社員五十名、製氷の請負販売と桐木造林業を経営した。製氷とはいってもこれは天然氷であった。製氷会社は他にも奥沢村に合資会社があった。

 昭和の現代、冷蔵会社や冷凍企業は殆んど水際線に近い地点にある。漁獲物や輸入マトンを受入れるためにも海岸に近いところが便利だからだ。だが明治の昔は天然氷だけを扱ったから入舟、奥沢の奥地で深雪のなかから氷を作りだしていた。

 

 林之助も他の多くの成功者と同様に教育熱心な商人だった。小樽高商の実現に当って広大な私有地を提供したのは二代目木村円吉だったし、第一期の市会議員となった伊勢谷吉蔵は自ら私立小学校も経営したほどの教育家だった。

 林之助が学資に悩んだ七人の貧しい東大生をも卒業するまでずっと面倒みつづけたが、後には数人の学生だけを世話するだけでたらず、稲穂小学校のpТ会長を十五年も務めて小樽市教育界に少なからず貢献したことは有名である。

 若い頃は「実業談話会」の一員として活発に動いたが、いまでいえばロータリークラブかライオンズクラブとでもいえる、毛並のいい実業人の親睦機関ともいえよう。昨今のクラブ員のなかには、一種のハイ・ソサエティ意識を見せるむきも少なくない。慈善事業的な催しものには、必ずシンボルの帽子をかぶって、デモンストレーションをするが、折角の善意の行動であるから静かに行なう方が光るのではないか。

 なかには、こうしたグループに参加することによって、自分の商売にプラスするような陽動作戦をとるものもなくはない。

その点、明治時代の経済人は殆んどが脛一本、腕一本で叩きあげて財をなした。社会的にその家業が認められるまで、傍目もふらず一心不乱に働き続けた人が大半である。

 ある程度の蓄財に成功してから初めて周囲を見廻し、それまでに稼ぎためた財産の幾ばくかを一般社会に種々の形で還元している。学校建設、子弟教育、社会事業施設への寄付、災害へ義損金を献ずるなどなどだ。

 「果断にして性磊落」つまり陽性で大ざっぱだった浜の商人は、成功すると気前よく社会のために尽したともいえる。

 言うならば往年の経済界を馳せていた駿馬群も昭和の今日、いささか精彩を失い名代の老舗も二代、三代となれば昔の気概はその血脈のなかで次第に衰え色あせてゆくものだろうか。

 

 稲葉林之助は昭和二十年八月奇しくも日本敗戦の月に天寿を全うしてこの世を去っている。

「天は人の上に人を作らず…云々」の警句を残した福沢諭吉に深酔した林之助もやはり小樽豪商列伝の中に入る人物であろう。

~続・小樽豪商列伝

月刊おたる 昭和42年8月号~44年6月号連載

里舘 昇