几帳面エリート 新谷専太郎

2022年01月11日

 十六年もの長い間、小樽市長の座について市政の要を握り続けた安達与五郎氏が初めて第一回の選挙に立起したときのライバルは自由党の推す有力な経済界のチャンピオン新谷専太郎その人だ。

 小樽市民の殆んどが九分九厘新谷氏が勝つだろうと予想していた。保守党の牙城小樽には松川嘉太郎、杉江仙次郎、新谷専太郎のボス三郎が健在であり。この三長老の後ろに柴野仁吉郎という大物が控える保守党の陣容だったからである。

 だが民主、社会が協力して推す一開業医安達与五郎氏が見事に金的を射止めた。当時の北海道新聞小樽版は二候補を大きくとりあげて比較し、安達支持の論陣を張った。時の編集部長だった現泉市議はこの頃を回顧して次のように語っている。

 「新谷は死ぬまで私を怨んでいたかも知れぬ。このとき本当は石橋猛雄氏が出馬する筈だったがパージのため代打に安達が起用された。几帳面だが孤独だった新谷は保守党の全力を挙げてた選挙戦にもかかわらず敗れ去ったから。」

 安達市長の出現が保守色の濃い小樽を以来、次第に異質なものに変えてきたことも事実である。

 

 明治二十七年二月二十二日に発行された北海道実業人名録のうち「小樽港並付近実業人名」に網芋商として堺町二十番地に新谷喜作の名が他の同業四人と一緒に挙げられている。この喜作と妻フサの間に二男として生れたのが専太郎だ。明治二十三年五月十四日生れ。

 母のフサは初代板谷宮吉の姉である。板谷、新谷両家はフサをクサビとして深い親戚づき合いをしていた。少なくとも女傑フサが亡くなるまでは…。勝気で家中の取締まりに厳しく、儀礼的形式を重んじた母に育てられた専太郎は樽中をでると東京高商いまの一橋大学に入学、首席で卒業した。秀才であったわけだ。

 彼が大学在学中に母が死んでいる。札幌の市立病院に入院中に精神異常の患者が棒片れをもってフサの病室に入りこみ、乱暴を働いたのが死を早めた原因だと伝えられている。叩かれても助けを呼ばなかったのはフサの生来の気丈夫がそうさせたという人もいる。

 専太郎は大学を卒えるとすぐ家業を継ぎ、明治四十四年十一月、田中武佐衛門の三女トヨと結婚している。喜作時代と違って専太郎は最高学府の学歴にものを言わせて独特の商域拡張に努めた。

 大正九年、市内実業界の有力者と組んで北洋商行を設立し北洋漁業と日露貿易に力を入れたことは、今日対ソ貿易に目を向け始めている小樽の動向と考えあわせて特筆すべきものがあろう。

 商都小樽の躍進は港湾を活用すること、ロシヤとの交易を促進することだと……ことごとに強調した新谷の主張は戦後二十三年たった現代の小樽に最も要求されているものの一つだという事実をわれわれは深く心に銘記すべきだろう。

 

 専太郎は大正十三年に小樽取引所会員に加盟、翌十四年には商業会議所議員となり、昭和五年から戦後の二十六年まで前後二十年八ヵ月の期間市会議員を勤めた。昭和九年副議長。十三年に議長の要職も勤め、文字通り小樽保守党の元老として政界に睨みをきかせた。

 外にあっての専太郎の活躍は日ソ貿易の促進と小樽政界での重鎮ということだったが、内にあっては几帳面で整頓好きの性格をそのままに、良くいえば倹約家、悪くいうと金の切れが悪かった。要するに家事、商法一切について当世風でいう合理主義者だった。

 これまで新谷家に出入した人々の足が次第に遠のき始めたのは、初代板谷夫婦も頭が上がらず「使うときにはケチケチしないで使うこと。但し節約するなら誰もが納得のゆくように倹約すること」とキメつけたフサが亡くなってからである。

 フサ時代に長く勤めた奥向き女中も辞めていったし、新谷商店の白鼠といわれた忠義番頭山吹某も去っていった。いま、緑町で開業中の渡辺外科院長も尊父が山吹氏の後に新谷商店に入って支配人のポストについたがこれも長く続かなかったという。

 喜作、フサの時代が専太郎、トヨの代になって交際する人々の毛並も漸次変っていった。だがそれはそれとして新谷専太郎は昭和初頭に自らシベリヤ視察団団長となってソ連国内をみてまわり、この視察の結果ソ連領事館や商務館を小樽市に誘致すべきだと強調してこの運動を展開して成功、小樽日ソ協会の理事長に就任した。

 ソ連通の益山義平氏が専太郎を「気骨のある人」と評しているが、これは対ソ問題に関してだけのことで人間専太郎が総てに気骨があったかどうか。人間専太郎はエリート中のエリートであったし、わが家の屋台骨はゆるぎもないものを受け継いだ。先代の財産を固守もしなかったし、放蕩もしなかった代りに彼なりの着目で動いた。

 だが鉛筆や万年筆の先を全部揃えて抽出しに入れておく程の几帳面な性格は、所詮腹と腹でぶつかる政治力というものにはやや足りなかったのではなかろうか。それも親しい友をもたず腹心の子分もなく、孤立無立のオンリイ・ワンという専太郎自身の生き方にあったのかも知れない。

 今日でこそ、小樽政界で松川嘉太郎の存在は大きな比重を占めているが、松川、新谷、杉江の大物「三郎」が港小樽に睨みをきかせていた頃の本当の大物は板谷商船の大番頭柴野のとっつあんだった。海陽亭で酒宴の最中、仁吉郎に伴った芸者(中居?)がちょっとした粗相をしでかした。虫のいどころが悪かった仁吉郎が「海陽亭にペンペン草をはやしてやるか」と怒鳴って一座がシュンとしたという伝説的実話がある。

 現代の伝説を紹介する。昨年の節分の夕方。海陽亭に経済人の主だった人が集まったが、誰も酒肴を前に手をださなかった。松川オン大の到着を待つためだった。三十分遅れて松川嘉太郎が姿をみせ初めて開宴したという。s会という某酒造の会がある。松川の倅が会長だ。s会の集まりのあった席、某専務が「会長が遅いならいい、とりあえずやろうじゃないか」と手をだしかけたら「もうちょっとまとうゃ」と隣のご仁がたしなめたという。

 今日の松川の偉名が小樽ではいかに轟いているかの以上は一 二の例だ。その松川もシュンとしたのが亡くなった柴野仁吉郎。仁吉郎は板谷の大番頭で、その板谷宗家の初代宮吉の姉が新谷専太郎の母である。

 板谷、新谷はこのルートだけを辿れば両々甲たり難く乙たり難い小樽の老舗たるべき筈だ。だが板谷商船は尚健在だが、新谷商店は小樽漁網と社名を変えたものの現当主篤太郎氏の存在は専太郎時代とかなり違う。

 「抱擁力に乏しいのが専太郎の過剰なエリート意識によるもの」と評したのは同年代人の声だがやはり小樽市政功労者の一人に銘記されている専太郎の存在は小樽市史のヒトコマである。

 小樽漁網の現社長篤太郎は大正七年五月生れ、長じて江別の野呂家からハツを妻に迎えている。真子、誠太郎、友季子の子宝に恵まれて安泰だ。杉江仙次郎に猛、松川嘉太郎に行男、そして新谷専太郎に篤太郎がという後継ぎがそれぞれいる。親父の代のトリプル・グループのように子息のトリオが現代の小樽経済のイニシアティヴを握るという奇蹟(?)は生れないものだろうか。

 北方貿易に目を向ける時代が再びやってきた今日この頃である。政界のボス、学園のエリートなどある意味で毛並みのいい家庭に育まれた現代っ子を幽明境を異にした専太郎は何と見ているだろうか?

 

~続・小樽豪商列伝(9)

昭和42年8月号~44年6月号連載

里舘 昇