豪商でない商人 伊勢谷 吉蔵

2022年02月06日

 あと五年たつと量徳小学校は開校百年を迎える。一世紀の創立記念日を控えて野口誠一郎校友会長は是非とも立派な式典を…といまから大張り切りだ。量徳校沿革史はいわば小樽市教育界の歴史そのものといってもよかろう。

 学制が施されたのは明治五年でその翌年に手宮、小樽、銭凾に教育所が置かれ続いて九年には朝里、張碓、熊碓、祝津とその数をふやしていった。教育所の一つに量徳学校という新たな校名がついたのは明治十年のことで、このときから他の六教育所は、量徳の分校となった。

 殖産興業に重点が置かれていた開拓黎明時代の北海道に於ける教育の実情はその程度が極めて低かった。つまり国家主義の下に教育は天皇に奉仕するという不動の大方針が定められたとはいえ、本道は植民地的実情が加味されていたため不就学児童がすこぶる多かった。

 子弟を入学させる郡長宛に入学願を提出しなければならぬという手続き上の煩わしさもあったが、当時の父兄が教育などというものは無縁の世界と決めていたし大半が生活困窮者でもあったからにほかならぬ。

 明治二十七年になって稲穂尋常高等小学校が設けられたが既設の量徳その他の学校では到底収容しきれぬくらい不就学児童が激増していた。この頃の授業料は例を量徳校にみると高等科で一等六、二等五十銭、三等が四十銭とあり。

 この等別は当時、北海道地方税各戸割数の等差でつけたものだが、教師は訓導と呼ばれてその俸給も高等科で三十五円から十二円、尋常科では二十五円から八円程度という薄給だった。

 次第に学校や分教場がふえていたとはいえ公立学校が少ないから通学したくてもできぬ子弟もまだ多く私立の小学校がかなり誕生した。明治二十七年六月市内山田町番外地に私立高田小学校が出現して生徒七十二名を収容した。越えて二十九年二月には二ヵ年制補習科まで加えられた。この私塾を開校したのが旧姓高田すなわち伊勢谷吉蔵そのひとである。

 

 後に市会議員や市参事なって民政派の錚々たる政客となった吉蔵は明治二年四月、青森県東津軽郡油川町字大浜に生れた。長じて次第に発展しているときく北海道に目をつけ、ここで雄飛することを決意すると二十三年七月に遙々来樽した。教育勅語の発布される三カ月前である。

 吉蔵が小樽にやってきてまずめについたのが毎日ぶらぶら遊んでいる不就学児童の群れだった。青森弁丸出しのお世辞にも話上手といえぬながら、なかなかの物識りだった吉蔵はやがて親しくなった人たちと語らい高田学校を開設した。私塾は同じころ続々と出現しており同致小学校、開蒙学校、小樽女子小学校、私立高島小学校、花園小学校、奥沢簡易學校などが開かれていた。

 高田学校もだんだんと小学児童がふえて三百人以上も収容した。本道屈指の大酒造家野口喜一郎や故新谷専太郎もこの高田学校に学んだことがある。吉蔵自身も向学の志が厚く自ら検定試験を受けて教壇に立った。

 こうして高田学校在校生は年々数をふやし、このままでは在来の校舎が狭くて児童全部を収容しきれないという事態になった。吉蔵は明治三十一年に校舎の新築にとりかかるべく市内有力者の間を駆け廻って寄付金集めにほん走した。だがこの努力は水泡に帰し、せっかく新装なった校舎は請負業者に譲渡して閉鎖の悲運に泣かねばならなかった。

 旧姓高田を伊勢谷と名乗るようになったのは吉蔵が小樽に落着いて暫くの後に水産物加工商人伊勢谷清吉の養子になったからだ。この清吉は鰊漁で儲けてから蓄えた金で帆立貝の白干し製造業を始めていた。この頃水産加工といえばごく珍しい商売、まして帆立の乾物などは誰も見たことがないという時代であったから、製品の見本を三井物産に納めたときは「菓子と違うか?」と誰も貝の干したものだと信じるものがなかったという。

 最初は地元で百六十匁(約四二六㌘)六十七円の相場だったが忽ち評判をとり、横浜までだすと十倍の値で飛ぶように売れた。清吉の財産はますますふえた。

 その家に婿入りした吉蔵だが私塾経営に失敗して法律知識は処世の上にも絶対必要なものだと痛感、一心発起して上京すると現今の法政大学の前身、和仏法律学校に入学した。明治三十七年七月めでたく第一回卒業生として学をおさめ小樽に戻った。既に養父清吉が貸地業にも手を拡げていたので吉蔵も身につけた法律知識を縦横に駆使し始めたものである。

 いま花園小路と呼ばれるバー街、花園二丁目一帯は伊勢谷家の土地だった。伊佐美小路がいまでもあるが一名、伊勢谷小路とも呼ばれた時代がある。あるとき吉蔵は自分の土地の地代金値上げを借地人に宣言した。驚いた借地人が何度も吉蔵に談判したがとうとう値上げに踏切ってしまい、伊勢谷はほかの土地より高いと評判を呼んだ。

 未就学児童の教育のために有志の間を走り廻って私塾経営に努めた吉蔵と、法律のイロハを身につけて断固土地代金をアップして一歩も退かなかった吉蔵とではどうもイメージがあわぬ感がする。この辺が変りダネの面目躍如たるものがあると思われる。

 自ら教育者タイプなのだがその真面目さ故に養父の九郎の結晶を敢燃と守りぬく固意地な一面ももっていたと考えられる。

 だいたい、この時代の北海道の事業成功者は大なり小なり土地を入手している。不動産物件として土地は一番手に入れやすかった時代だった。北海道庁が土地の個人私有を奨励する方針をうちだしていたから、余裕のできた商人はみな地主でもあった。

 小林多喜二の有名な小説〝不在地主〟のモデルといわれる磯野進は農場争議ですっかり悪王にされたが彼は六十万坪近い広大な土地を下富良野一円に所有した。二代目木村円吉、山田吉兵衛、板谷宮吉、藤山要吉、寺田省帰など小樽で財をなした豪商はいずれも数百、数千坪の土地の所有主だが、吉蔵は土地家屋の賃借を業としてホタテの乾物で蓄財した養父の持物をさらにふやしていったわけである。

 大正十五年、第二回市会議員選挙に吉蔵も出馬して当選したが、このとき一緒に市議のバッヂを胸に輝かせた人でいまも健在なのは中央バスの松山嘉太郎社長、既に野に下ったが国会議員も勤めた境一雄そして最近やっと退院して小康を保っている戸井正三である。

 四十二年春の統一地方選挙の市議選で遂に落選の悲運に泣いた老雄岩谷静衛は初当選が昭和五年、このときにも吉蔵は三十六名定員の一人だった。同じ議員仲間にはもう物故した新谷専太郎の顔もあるが、且て高田学校では教えるものと教えられる間柄のものが同じ議場で肩を並べることになったのも面白いめぐりあわせといえよう。

 温厚で初対面の印象が好感をもたれる人柄であった。なかなかの達筆者でありいかにも教育者にふさわしいタイプだが決して事業家肌ではなかったと知る人は回想する。そんな吉蔵が貸地業を営んで他の同業者より高値の定評を呼んだというのだから人間とは判らぬものである。

 だが総じて彼は余り人に憎しみを買わなかった。地主、家主といえば通念的に冷酷無比の債鬼をホウフツさせるが教育熱心であり、人柄が穏やかであったし後には色々の公職について町のために働いた学識者だったことも幸いしているのだろう。

 私学振興に身を以て活躍した努力の男伊勢谷吉蔵は「豪商」の名を冠するにはふさわしくはない人間像だったかも知れぬが、やはり小樽黎明期を作りあげた人の一人であろう。

 ここで余談ながら、いわゆる小樽の豪商と後に名を残した数多くの系譜を調べているうちに気付いた一つの傾向について触れておきたい。筆者と同じ印象を受けたと語るのは老舗小樽倉庫株式会社の後藤監査役だ。

 後藤氏は小樽倉庫の社史をまとめるべく種々の資料を集めておられるが、調査をすすめているうちにどの商家も養子縁組というケースが極めて多いという。全くその通りで本篇の吉蔵も伊勢谷家に婿入りして旧姓高田の名をすてている。

 山本厚三も旧姓は平沢、三代山本久右衛門家に養子として入った。実弟平沢は知る人ぞ知る。海運の藤山要吉も古谷家から藤山重蔵の家に迎えられている。筆者がこの続豪商列伝の第一回にとりあげた二代木村円吉を入婿模範生と述べたが、総じて婿は皆な頭がよくて働きものである。

 というよりは迎える側の方で働きもので才覚のすぐれた人材を選んだようである。自家にれっきとした男子がいても他家から養子を迎えた商家も少なくない。その理由は例え血脈の正しい嫡子がいても親の遺産で徒為無食する二代、三代が多いから、ノレンを永続させるための手段は律儀な婿を迎えるに限るという思想が強かったようである。

 血統の純であることより、家財の散逸を防ぎさらに蓄財を重ねようとする物欲の知恵とでもいったものを憶える。養子を迎えなかった何人かの豪商は一代で潰え去っているから矢張りこの合理的手段は加盟と財産を残すことについては成功だったのかも知れぬ。

続・小樽豪商列伝(13)

月刊おたる

昭和42年8月号~44年6月号連載

里舘 昇