三馬ゴムの始祖 中村利三郎

2022年02月19日

 笹りんどうの前髪を垂らした三匹の馬がトレードマークの「強くてはきよい」三馬のゴム靴はいまや日本国内はいわずもがな、ソ連やアメリカにまで輸出されている。この三匹の馬はミツウマ考案の独創的なものではない。

 その昔…といっても大正中期の頃だが繊維の貿易業者伊藤萬の売る綿布、モスリン、キャラコなどに三匹の馬が鼻面を中心に三方に配列された商標がはってあった。青と赤の二通りあって「青三つ馬」「赤三つ馬」と呼ばれて一級品と重宝された。

 これらの繊維品を北海道一円に販売した業者の一人が戸出物産小樽支店であった。

 初代支店長中村利三郎が後にゴム靴メーカーに変身したときこの三匹の馬のトレードマークを商標にすることを考え、配置を変えて三匹を横に並べ前髪を笹りんどうとして新たに登録したものである。

 台湾の商社と合併会社を作って彼の地に進出すると決まった三馬と第一ゴムの二社だけが小樽に残ったメーカーである。戦前から昭和二十八、九年まではしない奥沢界隈はゴム靴業者がごまんとひしめいていた。

 ちょっと挙げても三虎、極東、三洋、東和、国産、第一産業、北伸、新興化学、北海、三興、双馬など。もっと昔はいとや商事、東京屋、高見、日東、小樽などの大小メーカ割拠していた。

面白いことに小樽のゴム工業創業者には不思議と繊維業者が多い。北海ゴム、即ちいまの三馬ゴムの始祖は本編の主人公中村利三郎でもともとは戸出物産株式会社の初代支店長であった。いとや商事の伊藤弥一郎も東京屋ゴム工業所の高橋正之助も繊維業者か仕立屋出身だ。

 これは当時のゴム製品といえば大半がゴム底足袋に限られ、繊維屋がゴム底を足袋の下に縫いつけて売りだしたことから密接不可分の脈絡をもったものと解される。

 利三郎が大正八年、入船町に創設した北海ゴム工業合資会社は昭和五年に三馬ゴム合資会改称し、昭和十六年に国産ゴム、同二十年に三和ゴムを吸収合併している。この年三馬ゴムの第二工場は横浜ゴムと共同出資して北斗ゴム株式会社として発足したが二十六年には再び三馬傘下に併合された。

 一方、大正十三年酒井広次が潮見台町に建設した日東ゴムは昭和六年に三洋ゴムと合併、同十四年に東和ゴムと改称して荒田太吉が経営に当ったが、これも三十年には三馬に買収されて第一工場になっている。また昭和四年に誕生した三虎ゴムは極東と改称して間もなく三馬の第二工場となる。昭和十八年の事で社長の鎌田嘉次が三馬専務のポストについている。

 このように扱うゴム同様、伸びたり縮んだり離合集散めまぐるしい小樽ゴムメーカー界は独立、合併、分裂の歳月を経て現在に至っている。

 

 入舟一丁目角の北陸銀行に隣接する古い建物はいま北海道通信電設(山本勉社長)の所有となっているが、その前までは札幌に転出した戸出物産小樽支店だった。中村利三郎は富山県戸出の出身、男兄弟ばかりの二番目である。来道して一時札幌に落着いて商いをしたが間もなく支店長に納まった。筆者はこの戸出物産の近隣に住み何代目かの支店長の息子とは小中学校の同級生であり、越中衆の店員の子息数人とも交際していたから越中衆の生活ぶりはいささか知っている。

 とに角いずれも極端な綺麗好きで倹約家である。中には倹約を通りこして吝尚といった方がふさわしい人も少なくない。戸出物産のある支店長だったご仁は土地家屋の貸業で老後を過ごしているが、家の前で子供たちが遊ぶと「土地が減るわい、よそにいんで遊ばんかい」と辺りにしたたかの水をまいて追い散らす。綺麗好きで冬季間の除雪はせっせとやるが、はねた雪はちゃっかり向こう三間両隣の方におしやり、とに角自宅の前さえスッキリさせておく。吝尚精神がさせる徹底した利己主義的言動である。

 利三郎は朝店に出勤して前のごみ箱を覗き、衣類を包装した繩が一尺以上あれば勿体ないと店員をたしなめた。彼にまつわる噂のような逸話の一つに大阪までの仕入れの道中では一軒の茶屋で饅頭一つ買って茶だけで済ませ、次の茶店で茶だけを所望してその饅頭を喰ったとある。いっそ見事なくらいの節約ぶりである。

 「金が一文もあらんと世の中よう渡れんでえ」は利三郎の口癖。この会社は富山の戸出やその近在の出身者しか採用をしない。みな越中弁で仲間意識も強く、代々の支店長はみな厳しい倹約精神と長幼の序を強調した。角帯に盲縞の和服に黒の前掛けをした店員は、地方に出張しても取引先の店で夕食を馳走になり旅館は素泊まり。夜遅くまで小さな十露盤をパチパチ鳴らして売掛伝票の整理に励んだ。

 利三郎のもとへある日ゴム職工がやってきてゴム工場の建設をすすめた。大正八年、北海ゴムがかくて誕生した。澱粉靴と呼ばれた格好の悪いゴム靴の見本を片方だけ持たされて、戸出物産の外交員は地方に繊維品と一緒に売り歩いた。帰ってくるとデンプン靴と呼ばれるだけにすぐ白い粉をふいてぶざまになるので揮発油で拭いた。冬でも火の気のない倉庫でこの作業をやらされたのは辛いことだったと語るのは、若い頃戸出物産に長く勤めたことのある人の思い出である。ゴム製法がまだ幼稚な時代だったのだ。

 利三郎自ら軍手にゴムを塗ったりして畑違いの仕事にも熱心であった。酒も煙草もやらぬ、なにが楽しみでこの世に生れてきたのか…と思われる程仕事一途の商人であった。

 大体、小樽の繊維問屋は米穀商、海産商と並んで最も古い歴史と伝統をもっている。明治初年から運上屋の西川、岡田、名主の山田三家ともこの三種類の問屋業を営み、明治三十三年初めて「小樽呉服木綿商組合」が結成されたときの組合員は十八人を数え、なかに戸出物産を筆頭として小杉(入舟)神野(永井)塚本(色内)など昭和の今日も健在の業者もいる。

 だが繊維卸商だけに固執して今日まで屋台骨をゆるがせぬ店はそう多くない。反物商いがまるで畑違いのゴム工業に手をだし、これが基礎となって対岸貿易の輸出品とまでなった今日を迎えたのは、ケチなまでに金を惜しみながら実はその財を見事に生かした利三郎の旺盛な商魂があったからかも知れない。 

 いま三馬ゴムの社長はご存知吉村伝次郎だ。昭和八年大学をでてすぐ仙台の三馬ゴム工場に入っている。この仙台工場は置戸で鮮魚商だった石井某が叔父利三郎を頼って小樽にやってきて三馬に入社やがて仙台工場に転じた。後の弘進ゴム経営者である。

 当時、吉村の父は第一産業を経営し製品は戸出物産が販売した時期がある。その後初めにも述べたように企業設備や統合が何度か繰返され、ゴム業界の体質改善がなされて現在に至ったわけだ。

 「店員が食事を喰残すと、手をつけた以上は綺麗に平らげろ!」と叱った利三郎は彼もまた贅沢を避けてひたすら勤倹貯蓄に邁進した。

 国のために植樹に励み、故郷富山の学校や神社に多額の寄付もして愛郷の念も強かった。地方の一支店長とはいえ、実質的なトップマネージメントの資格は十分だった。義太夫と囲碁を好み軽口をたたきながら八十四才の長寿を全うして昭和十七年不帰の人となったが、小作人に農地を年賦でわけたり、定山渓の湯本ホテルも創設している。

~続・小樽豪商列伝(14)

月刊 おたる

昭和42年8月号~44年6月号連載

里舘 昇