ニシン大尽 白鳥永作

2022年02月28日

 「とに角やりにくい所ですな特殊部落といった感じがしますよ」と着任した頃に嘆いたのは小樽市立水族館の河合館長。水族館敷地は地元祝津住民数人が地主で、貸せ貸さぬ、売れ売らぬと市当局との間でもみ続けたものである。

 この祝津町に泣く子も黙るご三家が君臨していた。青山、茨木、白鳥の三網元だ。このうち白鳥家は別として今日も健在なのは青山、茨木両家でいまでもライバル意識はかなり強いと聞く。鰊漁業が盛んであった明治後期のころ、白鳥永作は祝津、浜益、枝幸で二十一統の漁場を有し、青山政吉は高島郡その他に十数ヶ所の漁場があり、茨木与八郎の漁場は十二ヶ統、祝津、雄冬に数ヶ所の海産干場があり収穫高三五〇〇石内外に及んだといわれている。

 鰊の大網元ご三家は明治、大正、昭和の初めにかけて栄えた富豪だったから祝津町というちいさな漁業の町は総べてこのご三家によって取りしきられた。最高の有力者(ボス)が対等の地位でテイ立していたのである。

 

 今日でこそニシンは鰊と書かれるが昔は鯡とかいた。米のとれなかった頃の北海道ではこれを支配していた松前藩が「ニシンは魚にして魚に非ず」として藩主の主だったものへの俸給は場所をわけ与える慣習だった。重役たちはそれぞれ場所支配人を使って鰊をとらせ、これを金銭その他必需品に代えたものである。即ちニシンは魚類とはいえ金銭そのものといって良かったから鯡と書いたとある。

 

 網越音頭やソーラン節は北海道の民謡として人々の間にいまも広く歌われているが、明治末期の最盛期には日に百万貫の水揚げがあった。その頃南部、津軽、秋田からやってくるヤン衆がゴメの群れとぶ海上に網をたて、やがて鰊が群来(くき)ると勇ましい網起音頭やソーラン節を風はまだ冷たいが、日ざしのめっきり春めいた洋上にひびかせて鰊漁に従事したものである。

 大漁続きの頃は浜は戦場と化し、汲船にアユミ板をかけてモッコを背負った男女が行列を作り乍ら空樽の上におかれた握飯を掴み喰ったという。

 白鳥永作も初めから漁場の親方だったのではない。越後の在から祝津のニシン場に出稼ぎ漁夫、つまりヤン衆としてやってきそのまま祝津に住みつき、次第に漁場を獲得していったようである。

 彼が文字通りの網元として祝津の浜に君臨したのは明治末期から大正にかけてのことだ。小樽市史(二巻)によればニシンの漁獲高は年により豊凶増減はあったが、小樽は明治二十年代、その前の頃に比べて漸減の傾向にあったという。二十八年ころまでは平均一ヶ年二二八五二石弱。このあと大正に入ってぐんと豊漁の年も何度かあった。 

 建網営業の資本は旧式刺網業に比べて多額を必要とした。当時の金で二千四、五百円はかかった。資本の種類には自費、仕込、普通賃借、青田売、収穫抵当などあったが一番多かったのは仕込方式。

 この仕込とは漁業者が漁期の間、米、塩、味噌などの物品や雇夫の賃金や漁場、漁具、漁船の全部または一部を現品か金で借り、収穫物は全部仕込親方(金主)に渡して売捌いて貰う。金主は売却の後に貸したものを引き、手数料に売上代金の三分から五分をとったものである。

 

 永作が羽ぶりをきかせた明治末期には祝津の浜だけで二十数ヶ統のニシン場があり、彼は五つか六つを所有していた。ニシン漁は三月から五月中旬くらいまでつづくが、この季節にやってくる奥羽、東北からのヤン衆は三、四百人。永作の漁場だけで二百人が働いた。このヤン衆の一月分の丘陵はならして一人三、四十円。彼らに払う一季節の賃金総額もたった一日の水揚げで足りたというのだから、いかにニシン大尽の懐が肥えたか想像外である。

 ヤン衆は黒木綿の筒砲袖の和服に縮緬の海楽帯をしめ、その上に無尻外套をきて柳行李や竹行李を振分にして肩にかついで親方のところにやってくる。祝津、高島はまだいいとして古平美国の漁場を目ざすヤン衆は小樽に上陸すると、徒歩で余市や積丹の漁場に向ったが、まだ残雪も深く、いまの積丹町から登った街道筋の小樽茶屋で一服し食事をとってまた雪道ふんでいったと伝えられている。ニシン漁が終れば親方から九一の利益配当をもらい、盛大な顎別れの酒宴の後それぞれ故郷に戻っていった。配当は船頭や舵とり下役それぞれ階級、仕事の違いで差があったが、大量のあとの祝儀は少なくなかった。

 永作も一代にして鰊のお蔭で巨万の富を得たが子宝には縁が薄かった。たった一人の子供は成長してから漁師を嫌って教師になったが年若くして亡くなっているという説もあるが、古い人たちの話では栄房という子が長じていまの小川産婦人科医院のあたりでカフェーを開業したと語っている。

 一代でニシン大尽となった永作の子が贅沢華美な生活に馴れてちやほやされ、道楽者となって水商売に手を出したという筋書きはありふれている。永作の別荘は実はいまのキャバレー現代の建物。後に自養軒主がこれを買ってキャバレーのはしりになった。いまの自養軒は女給たちの寄宿する主屋だったが、時移って今日のように「現代」と「自養軒」が向い合うようになった。

 名もなく金もない裸一貫のヤン衆から身を起し、遂に祝津ご三家の一人に数えられた一代きりの大網元白鳥永作は祝津町の発展のためには茨城、青山両家にもまして熱心につくした。水不足で学童が水を呑めずにいると聞くと校舎裏山に水ため掘って管を学校までひいた。道路を開き、御真影奉置所も作った。御真影とは明治二十二年か天皇ご夫妻の写真を全国小学校に配布し三大節にその他の式に必ず礼拝させたもので「教育は天皇(国体)に奉仕する」という国是が決められたものだ。写真は〝非常持出用〟の金庫に納めるか、校庭の一隅に奉置所を別に建てて安置した。

 いま北祝津町、市水族館の上に泊の大網元田中福松の建てたニシン御殿(道指定有形文化財)が移設されて観光客の目をひいている。タモ、セン、トド松などを主とした道産材など三千石の木材を使って明治四年に着工して同三十一年に完成した黒と白のコントラストを生かした漁場の親方の建物である。北陸の切妻造の民家様式と本道明治初期の洋風モチーフを織りまぜた豪放にして繊細な御殿。

  昭和三十三年の道博を柱に小樽市に寄贈されて、場所もニシンにゆかりの深い祝津海岸の突端に定められたが、ここは白鳥永作のホームグランドである。ひと頃は二百人からのヤン衆を使ったという永作の盛んな時代を偲ぶものは、水族館前の食堂花屋支店の建物。

 丸太を組合わせて作り、油がにじみ、ランプや囲爐火にすすけた屋内のくすんだ空気をかぐと「ヨースン、ヨイイヤサ、ヨーシコイサ」の掛声も勇ましく胴網をたぐり起し、勇ましい枠入れを行ない、ソーラン節にあわせて大きなタモで枠のなかではねとぶ鰊をくみあげた…という鰊場風景が思い描かれる。

♪鰊くるかと稲荷にとえば

 どこの稲荷もコンという

 幻の魚は日本海から消え、昔年の鰊場は衰微してしまった。姿を消した鰊同様に白鳥家もいまはなく、その別荘はキャバレーと飯場は大衆食堂に変ってしまった。白鳥家の血筋のものはい函館に住むと聞くが誰も直径の子孫なのか、縁戚筋の人かも知らぬといい、また詮索する必要もない時代となったのであろう。

 幻の魚にのって現われ、ヤン衆の群れの上で君臨した男の話は幻の魚とともに人々から忘れ去られてしましまった。

~続・小樽豪商列伝(15)

月刊 おたる

昭和42年8月号~44年6月号連載

里舘 昇

 

『白鳥番屋 250,000,00円で売りに出ています。』

『昨日2月27日(日)塩谷海岸で群来が見られたそうです。』