手宮の主 能島繁蔵

2022年03月23日

 この小樽にもその地域に数々の功績を残した人の個人名をそのまま俗称としているところが幾つかある。稲穂、入船の両町を結ぶ道路を自費を投じて開設した小樽商業会議所初代会頭山田吉兵衛の徳をたたえて‶山田町〟がある。

 緑町には大地主二代目木村円吉が所有した丘を‶円吉山〟と呼び、これも有数の地主伊勢谷吉蔵の土地の別名‶伊勢谷小路〟とよんだ。現在、伊佐美通りといわれる小川産婦人科医院周辺の通りだ。

 手宮の中央バス・ターミナル手前にいわゆる‶能島通り〟がある。豊川町一から錦町五二、四一に抜ける通りだ。ノジマ通りと呼ばれるようになったのは昭和三、四年ころからという。

 このノジマ通りの主、能島繁蔵は現小樽市博物館長であり家庭裁判所の調停委員でもある能島正一氏の祖父、手宮町一帯の発展に大きく寄与した功労者である。

 繁蔵は連日大勝利の快報に湧く日露戦争末期の明治三十八年に永眠した。旅順陥落のどよめきが旗行列、チョウチン行列となって万歳万歳の連呼が続いたとき繁蔵死去の悲しみにこもる能島家の前では行列は一言も発せず頭をたれて過ぎたという繁蔵の偉徳のほどが伺える逸話である。

 小樽初の公衆浴場を作り、回船問屋を営み、雑貨商を経営し水をひき、道路を開き河川切替工事に多額の金を献じたとなれば一体繁蔵の本業はなんであったのか。手宮では農場ももち蚕もを飼いリンゴ園まで造ったという。文字通りの八面六ぴの企業マンといえる。孫の正一氏は、

「やはり本業は雑貨商だったのでしょう。回船問屋といいますが、二隻の和船が大時化のために積丹沖で遭難してからぷっつり廃業していますしね」

と語る。本業はやはり雑貨商で舎浜野屋という屋号だった。この店の支配人が麻里英三であり山田吉兵衛の支配人が藤山要吉や渡辺兵四郎だったというから明治もずっと初めの頃である当時は支配人と呼ばず部代(ぶりだい)さんと呼んだそうな。

 

 小樽市史に「手宮裡町を流れる手宮側が蛇行するため不便であったのでこれを切替え、さらに北廓が指定されるや新たに道路開さくが必要となったので自費で開さくを施行、また手宮川通りの主要道路を無償寄付し、現在の如く同地域が整備されるに至ったのは手宮在住の能島が三代に亘って奉仕したもの」と記されている。三代とは繁蔵、正治郎、正一(現当主)で初代は明治二十三年頃自費開さく、二代は同四十年ころの自費築設、そして現当主は昭和九年に私有地を市に寄付している。

 安政六年、繁蔵は妻を伴って郷里の石川県は能登半島の突端鮹島を後にして渡道した。蝦夷で一旗あげずば…の魂胆で北海道をめざした他の多くの人々と同様に夢と希望に胸をふくらませてまず函館に落着いた。郷里の鮹島は極めて貧しい寒村だったので広い北国でなんでもやろうと決心したことだろう。函館では漁場で稼ぎ、やがて石狩の漁場に転じ僅かながら貯えのできたころ小樽の入船町に落着いた。いまの第二大通りと量徳寺の間あたりだったという。

 飲み水に恵まれその量も豊富だったので付近に住む人やニシン漁で魚くさいヤン衆のためにヨシズ張りの五右衛門風呂を作った。すなわち公衆浴場のはしりだ。

 御時世が明治と改まり倅の正治郎も生れた。豪放な性格、積極的で進取の気性に富む繁蔵の商いは順調に伸び、手宮の一角にも出店をもった。金もできたの和船を買い下関廻りの大阪までニシンを運んで稼ぎまくった。

 北海道開拓使が札幌に置かれたのは、明治二年(一八六九年)七月。翌三年一月には政府監督下に回漕会社が誕生、さらに同四年回漕取扱所と改められたが、この頃はまだ開拓使の見解として本道周辺への航海には危険も多く、民間商社が海運に進出することは極めて困難とされていた時代である。そんな折自ら和船を求めて西国、関西に海産物を搬送した繁蔵の心意気は天晴れである。

 だがなんといっても能島家の身代をゆるぎないものにしたのは明治十三年十二月二十八日の札樽間鉄道開通以後のことだ。義経、弁慶、比羅夫、光圀、信弘、静と続々輸入された機関車は米帆船で手宮埠頭に揚げられたレールをつぎたして札幌以北の道奥へ伸びてゆくことになる。

 この頃、手宮には開拓使の設けた煤田役所があり、ここから海に向かって大桟橋がクロフォード技師の手によって完成している。鉄道の起点となった手宮地区は忽ち日の出の勢いで発展したことはいうまでもない。

 繁蔵は間もなく入船町から手宮町に居を移している。岡蒸気の出発点には多くの商人が砂糖に群がる蟻のように集まってきた。すでに繁蔵は開拓農場をもち桑の木を植えて養蚕事業に着手していたしリンゴ園も造っていたほか、錦町一円の土地も取得していたので、急激にふえる人々のために借家を建てた。借家と言っても主に酒色を業とする色町である。つまり桟橋に接岸する緒船の乗組員や漁場のヤン衆のための遊び場、私娼だまりだ。

 繁蔵にしてみればこうした自首屋(ごけや)を開かぬことには船員や漁師などの屈強な労働力の確保が至難であると判断したからである。出現したのが有名な手宮の‶狸小路〟である。これは殆んど繁蔵の自費によるという。だから本当は能島通りより狸小路の方が繁蔵と関係深いことになる。

 この狸小路は当時午后二時ころになると毎日露店が開かれ、魚や野菜その他あらゆる日用品が並んだ。本田沢あたりの百姓が荷車一つの野菜をもってきて売るとその晩のオカズ代と子供の菓子代ができたといわれる。この風潮はいまでも手宮界わいに散見することができる。

 弦歌さんざめき白首の女たちの嬌声あふれ、露店商人が並び…と付近一帯は大いににぎわったが区理事者や警察当局にしてみると治安、風紀対策に頭を痛めなければならぬ。遂に明治四十年、現梅ヶ枝町三十番地を中心とした一帯一三七五〇坪を遊廓地に指定した。いわゆる北廓の誕生である。忽ち辺りの地価は高騰し、家屋は慇々激増して花の都手宮町が出現した。繁蔵逝いて数年後のことだ。

 この頃は繁蔵ばかりでなく土地もちの商人は排水施設、土地整備、橋梁架設は自分の手でやった。勿論繁蔵はその第一人者で手宮、錦、豊川町でいまに残る道路の数本は彼が手がけたものである。いわば自費負担による都市建設を実行した功労者といわれるユエンだ。

 これは余談だが元市港湾部に勤め、いまは臨港鉄道会社に席を置く古川業務部長は昔の思い出話を次のように語っている。

 「何せ明治、大正時代は鉄輪の荷馬車が唯一の貨物運搬機関だった。雨が降りと田園のようにぬかった泥道に轍がぬかって馬夫は難儀したものだ。いまの色内から手宮に抜ける切割りは昔は大八車も通らず、ここを通り抜けるときは一旦荷物を肩にのせて手宮側に運ぶ。向こう側でもう一度組み立てて荷物を積み直してからえっちらおっちら曳いたり押したりだった」

 こういう交通難の時代に自腹をきってまで道路を拓く、河川の切替えもやる。水もひくという大事業をやってのけたのだから昭和の今日まで‶能島通り〟が存在もしようし、その死去の報に接しては、国をあげての大行列も沈黙して能島邸の前だけは静かに通過したという話も頷ける。

 現在、能島家には北海道庁にもない当時の建設工事の詳細が判る資料がそっくり残されているという。郷土史探求のための好資料をもつ能島家。三代に亘る郷土発展のための功労者はまだまだ沢山いることだろう。

続・小樽豪商列伝(17)

月刊 おたる

昭和42年8月号~44年6月号 連載

里舘 昇

能島邸

能島通り(2022.2.24撮影)