失敗つづきのアイディアマン 秋野 音次郎

2022年05月08日

 北海道はもちろん、日本スキー界の大先輩、よき指導者である秋野武夫氏は薬品問屋秋野商店の専務。店は道内一円に広く聞こえた名代の老舗、明治以来の古いのれんを誇っている。この店を築いた人は秋野専務の亡父音次郎である。

 柳並木の下を清らかな入舟川が流れていた時代はいまは昔、暗きょのなかをどす黒いほん流となって有幌岸壁に吐きだすいまは、古きよき入舟町界わいのたたずまいを偲ぶよすがもない。明治時代からある入舟一丁目筋の店といえば秋野商店と小杉産業しかないという。

 音次郎は滋賀県近江の八幡で生れた。家は宿屋で薬とはまるで無関係。何かの記録では明治十七年に渡道したとあるが、秋野専務の話では弱冠十二、三歳でやってきたという。はじめ忍路の西川漁場に身を投じ、間もなく札幌へ移った。

 ここで音次郎が選んだっ職業がふるっている。今日の郵便配達で駅逓夫。郵便を配って歩きながらどんな商売がいいかを調べるのに好都合だというのだ。テンエイジャーと違ってその行動に計画性がある刹那的ゆきあたりばったりではない見上げた心がけというべきだ。昭和の今日でいうマーケット・リサーチを一人でやってのけたわけだ。一軒一軒歩いているうちに薬屋が繁昌していることに目をつけ、もともと薬品を扱うことの好きだったかれは幸三郎商店に通いぬいてついに住みこんだ

 これはと目をつけて勤めた好きな仕事、音次郎は骨身惜しまず働いたので幸三郎の妹を妻に迎えて秋野家の養子となった。清水が姓秋野の姓に変った。日露戦争のはじまる四年前、つまり明治三十三年(一九〇〇年)貿易港として日の出の勢いにあった小樽で開業することを思いたち現在地に居を構えた。

 その前年、小樽は開港場として指定をうけ既に国際貿易港の檜舞台に躍りでており、街は区政がしかれて人口六万一千八百九十三人、八千九百九世帯の大都会にふくれあがっていた。音次郎が居を移したとき小樽の町は市内電話が開通したばかりである。小樽っ子は新発足した区議会を足場にみずからの手で意欲的に郷土建設に邁進していたのである。

 そして日露戦争は大勝利、小樽港を基地とする第一艦隊の御用商人となっていた音次郎は大工を集めること、ブリキ職人を調達すること、食糧の確保などなんでも命令通りに動いて貢献したから、戦後はその余恵で数隻の船を所有するまでになった。いっかいの薬種商人の域をずっと大きく越えていたのである。

 南樺太がわが国のものとなるや、音次郎はこの機を逃さず樺太北部のアレキサンドルフスクに支店を置き土建業を手がけカニの缶詰工場まで建設した。カニ缶は大半をイギリスに向けて輸出した。秋野音次郎八十二年の生涯でこのころが最高の黄金時代だったのではなかろうか。カイゼル鬚をピンとはねあげハイカラな背広を着て社業の陣頭指揮にあたり、小樽と樺太を往復するという連日だった。当時、樺太の缶詰業界では全体の三分の一以上の販売高をあげたものの、あるときイギリスに送ったカニ缶がサビのために一部腐っていて全部キャンセルの憂目をみた。音次郎はこの責をとって工場を実弟清太郎にまかせて本来の薬業に戻った。

 やはりこのころ彼はオットセイの肉が寝小便にきき、睾丸は精力亢進剤になるとして加工したことがある。オットセイのキモの缶詰などというのは恐らく音次郎の製品が世界で初めての終りではないかといまもなお取り沙汰されているほどだ。だがこの肉はとても臭くて食える代物ではなく大失敗だった。

 とにかく研究熱心で卓抜したアイデアマンだった。構想をねるばかりでなく思いたつとすぐ実行するのが特色。だから音次郎の生涯は発想、着手、失敗の繰り返しでなかったろうか…と武夫まだまだ未開の辺地。熊はどこにでも出没していた。音次郎は警察に頼んで特にピストルの携帯を許されて山地をかけめぐって販路をひろげることに狂ほんした。そのかたわら薬の調合が好きなことからスのもとを作ってみたり、ソースを考えたり、石けんを作ったりした。恰度、味の素が世のなかに現われだしたころだ。

 無口で酒は飲まず、ひまがあると化学薬品をまぜてなにかを考案しようと同じ失敗を何度も繰り返すという精力的な研究熱心、事業熱心な男であった。明治末期、柳並木の入舟山は山の上町に曲る坂道のわきに秋野商店があった。たまたま小樽に立ち寄り、開陽亭の宴を終えて二人曳きの人力車上にふんぞりかえっていたのが伊藤博文、欧州帰りのハイカラ男である伊藤は、絶えず葉巻を離さなかった。短くなったやつをポイと投げると秋野商店に働く若いものが先を争ってとびだし、この吸いさしをひろったというエピソードがある。

 明治から大正、そして昭和初期、弦歌さんざめく山の上界わいに通う各見番のきれいどころが秋野商店の前を徒歩で、人力車で通った。近くの芸者は入舟湯で玉の肌を磨く。今の三ツ輪商事は昔その入舟湯であった。ニキビ面の丁稚からいい年をした番頭まで芸者の通るたびに仕事も手につかず、首をのばして外を伺ったものだ。

 昭和の現代、薬屋にゆくとよく冷えたアンプル飲料品が並んでいる。リポビタンやパラエスやアスパラなどなど。チュッとのんで心身爽快などとテレビのコマーシャルも大変なもの。ところが昔は薬屋でビールを売っていた。なぜビールが薬屋さんの店頭にあった。このころはアルコール分というよりは飲料品並みに扱われていた。いまのようにビール党がいなんかったことにもよろう。サッポロビールが生れて間もない時代の話である。

 稲穂町第一大通り、いまのまるむら布団店の一画にサッポロビヤホールが誕生したのはずっと後のことだ。直営という名が小樽市民になじんだことは中年以上の人なら記憶している筈。自分の店にビールを置いても、酒と名のつくものは一切やらず口数も少なく、ひまがあれば化学薬品を調合してなにかを創造しようとひたすら研究しつづけた勉強ぶりは老境にはいっても変わることなく、大きくなった息子たちに冷やかされてもやむことがなかった。

 事業の鬼であったが、名誉職につくことが大嫌い、市会議員や商工会議所議員にでるように周囲の人から何度も推されたが頑なに拒み通して終生、市井の一商人としての生活を貫き通した。人に仕事を教えるときは親切に指導することだと常に繰り返しつづけた。

 少年時代から小樽にすごして漁師、お茶屋、郵便配達夫、土建業、缶詰工場などあらゆる業種を手がけた。薬業という本来の仕事はかたときも忘れず、副業としてこれだけ多彩に事業の域をひろげた人と珍しい。家財をなしたときには花園町にもかなりの借家をもったこともあった。だがもともと無口な人であり記録を綴って後世に残すなどという人ではなかっただけに正確な足踏は実子の武夫専務にもあいまいでわからぬという。

 「お宅のお父さんに使われてことがあるとか、先代の借家に住んでいたことがありまして…などといってくれる人が後にでてきて、初めてそんなこともあったのかと合点したものですと武雄専務は笑っている。

 昭和二十六年二月十日、雪深い厳冬に音次郎は八十二歳でこの世を去った。余生は書画こっとうに凝って好きなものを集めて楽しんでいた。彼が亡くなった年は民選二人目の市長に現小樽信安達与五郎が選ばれている。音次郎が現在地に開業した年の初代区長が金子元三郎。時の流れ、移り変りの早さに目を瞠るものがある。

 

続・小樽豪商列伝(19)

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里舘 昇