頑固な米卸し商 畑 貫治

2022年07月05日

 昨年も米は豊作だった。どこの倉庫も古米がぎっしり。それにも関わらず新米の値はまた高くなった。米不足で高騰ならわかるが、捨てるほどあり余って高いとは納得できぬ…女性上位時代のチャンピオン主婦連や消費者協会会員が、政府や業者を相手に柳眉を逆立てて食いついたことはいうまでもない。だがこの対決は農村票大事とする政府与党のノラリクラリ作戦ですんなりと交わされてしまった。

 さてしからば古米と新米を半々にして売ってはどうかの新しい要求となったがこれも不発。目下消費者側は歯ぎしりしながら有名無実の配給制の壁を破れずにいる。いくら食生活が改善されたといっても米はやはり日本人の主なる常食。米をめぐる諸問題は瑞穂の国なるが故の日本が背負った一つの宿命論とでもいえよう。

 本道の稲作普及は極めて日が浅い。百万石とれたといって道庁が祝ったのは大正十年のころだ。だから商港小樽は移出入物資の主なるものは米と雑穀それに海産物。従ってこれらのものを扱った経済人が地元有力者になったことは容易に伺われる。地場生産では間に合わぬから外米を移入する。これを小樽から道内奥地に送りこむとの寸法だ。道米がまずいから越中米、秋田米、津軽米を常食とする都会の人も多く、酒造り用として朝鮮米もはいってきたし、蓬莱米の名で台湾からの米も小樽港にどんどん揚げられたものである。

 だから小樽には精米工業が大いにはったつした。京坂与三太郎を中興の祖とする共成株式会社などその最たるものだ。入舟町から山の上町と有幌町に分れる三角地帯に建つレンガ造りのフジヤ家具店の建物こそ、且て全道にその名を馳せた共成の本社である。小樽は米穀交流の中心地となり米穀取引所が設けられ、投機専業の仲買店も実米商を兼ねてかなりの数にのぼった。

 共成、木村松太郎商店、カネ久畑商店、カネ大上光商店、川田憲太郎商店、磯野商店などが有名であり、水車による精米所も多かった。右のうち後に主として秋田米を扱って産をなし市会議員を勤め、小樽米穀商業組合の理事長のポストにもついたのがカネ久畑商店に婿入りした貫治、即ち本篇の主人公だ。

 旧坂井貫治は明治十九年正月十九日に石川県で生まれた。このころの小樽は人口一万五千人程度。日和山灯台ができて三年しかたっていない。生家が貧しいので北海道に渡って一旗あげよう、そう思いたって函館にきたのは弱冠十六歳。明治三十五年のことである。荒物や米を商いとする加藤商店の丁稚どんになったわけだ。糞まじめの働きものであったが、函館はどうもあまパッとしない。風の噂できく小樽は凄い景気だという。加藤商店で二年ばかり勤めた挙句、貫治は港小樽を目ざして飛びだした。

 明治三十五年の小樽といえば樽中が開校した年であり、既に三年前の三十二年には開港場に指定されて国際貿易でにぎわっていた。貫治は迷わず手宮で開業中の米穀業畑とびこんだ。当時の手宮はいわば小樽の心臓ともいうべき地域で、人家がし飲み屋といわず、旅籠といわず繁昌していた。

 ここでも貫治は持ち前の精勤ぶりを発揮して陰日向なく機敏に働いた。主人の目にとまって娘カネの婿養子におさまったのはそれから数年たらずである。

 大正五年、畑商店は貫治の発案で合名会社と規模を大きくして彼は社長のポストにあさまった。大正十四年から昭和三かけて小樽市内に『みづほ会」と称する米穀屋ばかりのグループがあった。この会は米の仲立人も加えて毎月一回、市内有名料亭を回って一人一円五十銭の会費で会を開いた。席上米の売買もやったものだ。料亭にしてみれば僅か一円五十銭の会費ではソロバンがあうわけもなかったが、なにせメンバーはそのころの一流米問屋ばかり。この『みづほ会」で損をしても会員が個々に別の客を招利用してくれるので、大いに上客として接待これ務めたにということだ。このメンバーには共成、畑貫治、川田憲太郎、内藤松之助、木村松太郎など錚々たる顔ぶれが九人も揃い。他に専属中立人として早川善之助ら四人が加わっている。

 後の昭和五年から日華事変の起った十二年ころまでは台湾米を共同で直輸入するため、全道の主な米穀卸商を動員して「たから会」を結成したが、会員は「みずほ会」全員のほか札幌旭川などからも業者が参加している。勿論、小樽業者が大半を占めてその勢力のいかに強かったかを如実に物語っている。

 貫治は企業の拡大発展を図るためには、まずなにより信用が第一と考え「もじめに生活を送らぬと世間からソッポを向かれるぞ」と絶えずくり返した。だから半面融通のきかぬところもあって頑固親父と異名を奉られて同業者にも煙たがれる存在でもあった。

 信用確保のため米の仕入れには特に気を使い、堂々と客に自慢をして食べてもらえる米を売ることに専念し「北選米」とマークをつけて売りだした。これが当って道内各地から注文がひきもきらず。お蔭でカネ久畑商店の名は全道に通り、財も築いて押しも押されぬ米穀業者にのし上った。融通のきかぬまじめ人間だが反面もの凄い短気。家人や使用人の頭上に大きな雷の落ちることは屢々。ほら畑のガンコ親父がまた雷を…と近所でも有名だった。

 あるとき注文の餅をついたところあまりできが良くなかった。客がやってきて貫治にその餅を示して苦情をいったところ彼は、いきなりその餅を社員の一人にぶつけて「これがうちの餅かあ」と怒鳴った。ぶつけられた社員こそいい面の皮。別に彼がついたわけではない。人前もあらばこそ、この唐突のやり方はあまりにもひどい…とすっかり腹を立てたその社員は荷物をまつめて暇をもらうと支度を始めた。すると貫治はその社員の前に坐って「この店の責任者として客の前ではああするより他なかった。どうか許してほしい」と真心こめて謝罪したという。社員も初めて貫治の気持を汲みとり大いに感動したということだ。

 短気ではあるが実は、人情もろく人前での頑固も合名会社の社長の立場であればのことで、蔭に回ると使用人や同業者の相談ごとには親身になってのり、大金でも惜しげなく出して急場を救ったこともかなりだった。腕一本、脛一本で叩きあげた人にありがちな、生一本の親分肌といった一面を彼も持ちあわせていたともいえる。

 小樽米穀取引所の建米は最初富山三等玄米だったが、大正七、八年ころから旭川二等玄米が指定され、内地玄米は格上げされて受け渡しに用いられた。このころ卸商と小売商都の取引きは品物を店先に届けて四、五日たってから代金の七、八掛けを貰っていたが、小売商は卸商に依存して商売したから卸商の権威は並々ならぬものがあった。頑固親父と煙たい存在ではあっても畑貫治らの実力派道内の米業界を大きく左右していたわけである。

 貫治が市議会議員になったのは昭和十五年春である。これは十三年の選挙で当選した四十名のうち野藤常太郎、谷黒荘平も二市議が病没したため、岩谷静衛、田辺新一が繰りあげ当選となった。ところがたまたま本間保次郎、旅川遅稼両議員の当選無効による再選挙が十五年二月に行なわれ、本間と貫治がめでたく菊のバッジを飾ることになった。

 彼は一期だけ公職を勤めたが持ち前のまじめさを発揮して中央への陳情でも粘り強く接渉して、いつもなにかを得て帰樽したものだ。

 昭和十六年、米の卸商と小売商がその扱い実績によって出資しあい、結成したのが「小樽米穀商業組合」である。組合長は当時共成株式会社の社長だった寿原英太郎。市内に四十三店の配給所を設け、主に従来の小売商の店舗をあて、割り当てキップ制で米を売り始めた。この組合はさらに「食糧営団小樽支所」と看板を変えることになる。この営団は戦後配給公団となって小樽支所の傘下に各事業所が置かれ、小樽事業所長は厳小樽米穀会社社長の北秀太郎であった。北は商業組合誕生のころは経理部長、営団時代は小樽支所長だった。

 いわゆる小樽市内の独占事業ともいうべき米穀会社社長の北秀太郎は米ばかりか、小麦粉、たんめん、砂糖、肥料、灯油となんでも扱い、多角経営の実をあげている。最近は手宮にオートメーションの精米工場とガソリンスタンドを併設したかと思うと、若竹町地区にハイヤー会社まで新設すると大車輪ぶりである。

 この北社長が小樽で生れたのが明治三十七年十一月。米問屋の大先輩畑貫治が十六の少年で北海道に渡り、凾館から小樽に転じた年でもある。一方は「北選米」を生んで信用を博した明治、大正、昭和の米問屋。そして片方は米の世界に生きながら多種多様の業種に手をだす現代感覚の経営者。

 米屋が車屋を兼ねると知ったら地下に眠る貫治はなんというだろうか。これも時世の移り変りの所産というべきか。

続・小樽豪商列伝(20)

月刊おたる

里舘 昇