火消しの政治屋 二代 井尻静蔵

2022年07月06日

 鰊の群来(くき)るころになると、小樽は強い春の季節風が吹きまくる。お定まりの火事でいつも百の単位で家が焼かれる。

♪網はありぼろ(有幌)荷物はないぼ(苗穂)山から野火きてかじうらや(梶浦屋)

♩可愛い金曇町なにして焼けた寝てて金とったその罰で、三十三間バラッとやけた。

 右のざれ歌は慶応から明治初年にかけて、毎年のように大火が頻発したころ流行した。どの家もバラツク式の掘っ立て小屋ばかりだったから、一旦火がでたら手の付けようがない。まして消防施設などもない時代のことなので、大火大火の歴史がつづいた。

 小樽に〝駆けつけ人夫〟と呼ばれた火消し組らしいものが生れたのは、新地町の人夫請負業星川竜蔵一家の百人。これは私設。次いで鈴木吉五郎の〝末広消防組がやや消防団の形態をなした。消防気息がつくられ警察が指揮をとるようになったのは明治十三年秋。その後明治、大正と小樽市内のここかしこに数百戸をまとめて焼く業火は絶えなかった。

 それでも小樽に水道が通り、火災報知器が完備するに至って漸くそれまでの大火ほどに大きいものは年々少なくなった。この報知機を市内に設置するよう提唱したのが井尻静蔵だ。昭和二年、手宮錦町一円がごっそり燃えるに及んでときの木川田市長は失火焼失区域に対して区画割りと道路建設線の測量を行うなどして防火線を兼ねての路線拡張をおこなった。

 消防組織はそれでもまだ微々たるものだったから、民間消防団の力を充実させようとの動きが高まり、地域ごとの消防組が編成されて初代組長に井尻静蔵が推されてついた。

 静蔵は初め組長になることを渋った。表てだったところにでることの嫌いな人柄であったからだ。だが一旦組長のポストにつくと常備消防員の増強と、機動力の整備に乗りだした。このとき彼は、当時道内で函館にしかなかった火災報知機を市内に備えつけようと提案した。工費予算はざっと六万円。これには木田川市長も驚いて渋い表情。すると静蔵は木田川を消防署に階に呼びつけて大喝一声した。

 「市民の一人一人が汗水流して築きあげた財産を、笠井から守るには一分でも早くその火災を発見して消火に努ことだ。報知機はその意味でも絶対に必要だ」

 報知機は翌年市内百五十カ所にせっちされた。不届きな酔っぱらいがいたずらにこの報知機のボタンを押して、消防車が出勤することも屡々だが、火災の早期発見の大いにあがった。火消しの大親分と静蔵が呼ばれるようになったいわれだ。

 

 さて、この気骨の大親分は明治十三年石狩町で漁師の初代静蔵の長男に生まれた。あたかも日本で三番目に開通した手宮-札幌間の鉄道を弁慶号が汽笛一声して走った年でもある。後に名門札幌一中に入学しているから、漁家といっても彼の生家は豊かであったらしい。中学を卒えると再び石狩に戻って家業に従っていたが、数年を経ずして小樽にやってきて海産物の商いをひろげる一方で倉庫業も営んだ。

 明治中期で中学校の学歴をもつ商人とあれば仲々のインテリである。同三十二年には区会議員に選ばれている。知恵者でもあり政治好きだったので、革新クラブに所属して敏腕をふるった。喧嘩議会として全国に雷名を馳せた小樽市議会の騒々しさは、明治このかた一貫して変ることがない。小っぽけな港町が何故こんなに反目対立する小グループが多いのか。

 小樽は区政が施されて区議が選ばれたころから、地元民こぞって創意と情熱を傾けて町作りに努めた。それだけに職業や人間的つながりを中心とする派閥が生れ、それがまた考え方や見解の相違で核分裂を起すなど離合集散の明け暮れがつづいたことによるとみられている。

 小樽商人をこの派閥ごとに挙げてみると大体次のようなものだ。

①憲政党(浅羽一派)

②実業協会(旧公民会)渡辺兵四郎、岡崎謙、奥山富作、野口小吉、工藤清作、佐々木孝養

③協和会(後に岡崎らと結ぶ)山田辰之進

④同志会―金子元三郎、山本厚三

⑤委託派-高橋直治、板谷宮吉

⑥実業談話会ー谷伊六、磯野進、稲葉林之助、名取高三郎、小町谷純、寿原重太郎、篠田治七、寺田省帰、塩野喜作

などが主なものだ。

 右のうち同志会や協和会や再興青年会と謳っていた岡崎らグループが大正三年に大同団結して革新クラブと名乗った。このように極めて複雑な政脈を交錯させて新興小樽は激しい政争をくりひろげながら発展していった。いまは住居表示変更で呼称も変ったが、旧南浜町に貫通する運河作りについて、公有水面の埋めたては区がやるべきか法人個人でやるべきか…で論争が展開したときの対立は、小樽政争史の白眉ともいえる。

 実業談話会とはすなわち政友会系で、寺田、小町谷らが埋め立て工事の事業主に先代板谷宮吉をかつごうとする。すると民政系の実業協会グルー王岡崎らがこれに反対をするといった調子だ。このときは政友会の勝利以後政友と民政はあきもあかれもせず、」辛抱強く犬猿の仲を保って今日に及んでいるから、気の長い話ではある。

 このなかで静蔵は民政党系に属し、岡崎、奥山らと行動をともにした。やがて同志会の山本厚三と親しくなりその片腕的存在となる。山元は区議、市議を経験してから金子元佐寿郎のテコ入れで国会のジュウタンをふんだ。それというのも大正六年春の衆院選でライバル同士金子と寺田が名乗りをあげたものの激烈な選挙戦は違反また違反の非公明選挙に終始、両派とも大量の検挙者をだした。これが命とりで金子はその後二度とたたず乾分の山本に地盤を譲った。

 以後、厚三は衆議八期を勤める政治家となるのだが、その選挙参謀に秋山常吉、板谷吉次郎と並んで井尻静蔵が控えていた。厚三の弟亮造が留守過労格、民政党のチャキチャキがでんと構えてわが世の春を謳歌したものである。

 静蔵は大正十一年夏の道議選で無競争当選した。秋山も一緒だった。そこで山本の選挙参謀仲間である秋山を議長に推したものだ。すると反対するものがかなり多い。彼は持ち前のファイトを燃やし、これら反対派を料亭‶いくよ〟にカン詰めにして説得、遂に秋山議長を出現させた。自分自身は「政治家というものは長くやっては駄目なものでせいぜい一期か二期、あとはどしどし新人と代るべき」と述懐して進歩的な一面を覗かせていたという。

 井尻静蔵という人物は表面だってはなやかに立ち回ることより、いつも舞台裏で動くといったタイプ。人の面倒もよくみたが、政争に明け暮れる小樽の町で、稼ぎためた財産の大半を政治に使い果たしてしまった。初代の消防組長に推せんされたときも、始めは言を左右にして受けなかったし、山本代議士の片腕になって参謀のポストに安じ、道議にでれば僚友を議長に推すため腐心する。終始一貫して傍き役の道を歩きつづけた男だ。

 静蔵は豪商でもなければ、政治家でもない。だが小樽で成功した故郷脱出組の商人の大半は金に心配がなくなると、余技のように政友会だ、民政党だと血道をあげた直情径行のタイプが多い。彼もまた例外ではなかった。頑健な体一つが唯一の財産である立志伝中の群像が、蓄財して落ち着くとこれを政争のために惜しげもなく費消する。自分で稼ぎためて自分で使い果たす。明治時代の新開地小樽はこうした人たちが思い存分に羽をのばした格好の舞台であったようだ。住吉神社裏手の小高い丘に静蔵は英国風の洋館を建てて小樽を睥睨したものだ。

続・小樽豪商列伝(21)

月刊おたる

里舘 昇