個人の栄光からマス時代へ

2022年07月10日

 本欄の前執筆者脇哲氏の列伝人物も含め、豪商として登場願った小樽商人は五十余名。商人(あきんど)の腕を思う存分にふるって、今日の小樽を築いた群像である。

 ここに〝豪商〟としてはとうじょうさせなかったが、まだまだ書きたい商人は数多くある。この列伝を連載中も、誰某を載せたのなら何某の事績もぜひ挙げるべきだ…とのアドバイスを戴いたことも再三にとどま那ぬ。

 また「うちにこんな本があったが役に立つかどうか」とわざわざ門外不出の貴重な資料を貸してくださった方々。懇切丁寧に故人の隠れたエピソードを回想して披露下さった方など。この列伝を書きながら併せて勉強のできたこと深く感謝し、併せて各方面の肩に本欄を刈りて熱く御礼申しあげておく。

 

 蝦夷地西海岸の一画に位置したオタルナイに和人が足を踏み入れ、一世紀の時間をかけてその数を増し、オタルナイ場所を形作り、村並となり、町が拡がり市となった。総べてこの地に根を下した人々の努力の結晶に違いない。だが考えてみると、この一人一人は文化果つる塑北の地に、何十年かの後には見事な都市を形成してみせるぞ…などと厖大な夢をみてこの小樽にやってきたのではない。

 いずれも納得づくの算盤玉をがめつく弾いた挙句、夜逃げ同様にして故郷をでたものもあろうし、各地放浪の末ここに辿りついたものもいる。集団移民にまじって一旗あげようと希望の胸をふくらませてやってきたものも少なくない。

 それが後々、名手といわれ、豪商と称せられ、政商となってこの小樽の町に君臨する様になった。なかには銅像、胸像となってその業績を讃えられる人もいる。しかしその人生のスタートでは、蹉跌に直面したり、貧窮のどん底に喘いだ一時期のあったものが多い。

 〝千歳鶴の元祖岡田市松は父の製紙業失敗が因で小樽にやってきて〝北の誉〟にはいったのが醸造業の第一歩だった。石川県で父の仕事が順調だったら〝千歳鶴〟なる銘酒は生れなかったかも知れぬ。

 「無益ナルコトニハ決シテ財襄ノ口ヲ開クべカラズ、天然ノ楽ヲ楽シミテ自ラ求メ楽シムベカラズ」など一家興隆の信条を実践した寿原猪之吉一族も、家業の菅笠(すげがさ)が不況のどん底に直面して一向に売れず、残品山の如しという明治初年、小樽の大火をきいてセトモノを運んで売捌いたことが、今日の寿原コンテンツエルンのスタートだった。

 どケチ根性に徹した海運王板谷宮吉の逸話はいろいろあって有名だ。見送り用の役入場料(当時二銭)まで店の交際費にまわしたとか、たった一つの趣味は二階の座敷に札を一枚一枚並べて数えることだとか伝えられている。夢中になって後ずさりしてハシゴ段から落ちたが札は握ったままだった…など伝説は多い。

 現新た商会の清司社長の厳父荒田太吉の残した社訓は「努力は幸福の第一歩」「信用は無限の資本なり」など沢山ある。若いころは根室、網走、樺太を転々して随分と職を変えて苦労した。その苦難の道を歩んだ経験が前記のような社訓を作ることになった。昔の商人は〝苦労は買ってもしてみるべきだ〟という考えに徹していた。当節のものは、なるべく楽をして儲けようという思想が強い。

 自力本願一本鎗で小樽木材界の雄にのし上った亀田浦吉も、「千人の味方より、よく自分を知ってくれる一人を掴め」と強調した。

 〝企業は人なり〟という言葉があるが、商都小樽の基礎を作ったこれらの商人は、いずれも勤倹節約を旨として、働きづめに働いたようだ。そして家業の永久繁栄を願い、優秀な働き手真面目な人間を後継ぎに据えている。例え自分に子供がいても親の目からみて不安と写れば、外から養子を迎えることに躊躇しない。この商魂に徹しきった割りきりようは見事としか形容がない。

 当節のようにマスの時代となると、人はオートマチックな機構のなかの一部でしかない。平凡なサラリーマンでなく「プロ意識」に徹せよと要求される。いじましく節約する、時間を惜しんで稼ぎぬくという要素よりアイデアを生かし、情報キャッチを敏速にするほうが重要視される。

 往年の商人タイプは消えて、新しい型のプロフェッショナー が活躍する時代といっていいようだ。その意味で新工夫に失敗ばかりして、子供たちに笑われた秋野商店の始祖秋野音次郎

なかなかのアイデアマンだったといえる。精米用の水車に僅かな工夫を加えて後の共成時代を実現した沼田喜三郎とても、やはりその意味で人にぬきんでていたわけだ。

 昭和四十四年の現在、戦前の対岸、日本海時代は遠い昔の物語となってしまい萬時が大型の太平洋時代に変ってしまった。企業は大小の別なく合併また合併で、個人が睨みをきかせて、個性的な取引きを展開するというご時世ではなくなった。

 流通革命後の大量生産、大量消費時代の現代では、寿原、板谷、野口、渡辺、犬上、木村という個人差は問題ではなくなった。天下の大財閥が軒並に合併する昨今だ。明治~大正時代がもじどおりの実力主義時代なら、現代はコンピューター下の新実力時代と言える。

 上役の一喝で動いていた昔と違い新入社員は、いかに先輩に接し上役とつきあうべきか。そういうことが真剣に研究される時代だ。行商や露天業で暁天の星から宵闇まで働き通した明治の青年とは根本的に違う。これからは豪商というより、智謀のすぐれた経営マンが勝利を占める。

 

 交通の要路であり、労働力に恵まれ、金融機関が犇めいていた明治の小樽が、社会のすう勢に基いてみるみる膨れあがった。これは人間の力というより時勢のもたらしたものといえよう。一九六九年の現代は、これもまた時の勢いに従って小樽は凋落した。だがここで斜陽の落陽のと強度を悲観的に蔑視する傾向は改めなければならぬ。

 何故なら二十万人という人口が増減の巾を殆んどみせず維持しているという事実は、それだけの経済的実力を温存している何よりの証左にはかならぬ。もし、世界的政治経済の危機というものが全く拭われて、中共、ソ連とも自由に交流できる時代を迎えたら、日本海時代が再び黄金の花を咲かせることは殆んど確実といってよい。

 木村会議所会頭の強調する裏日本時代到来に向って、地元経済人が惜しみない努力を払うことは決して取ろうではないはずだ。林松蔵がロンドンと直か取引きをし、坂口茂次郎がベニヤ意を英国に送りこみ、沿岸貿易には倉内嘉蔵が力をいれた。

 上海航路、南米航路を開設して稼ぎまくったのは犬上慶五郎だ。小樽商人は結構、海外にまで触手を伸ばした実績を数多くもっている。夢よもう一度どころか、再三再四の好機がいつやってくるか、今日か明日舞いこんでこないと限らぬ。今日の小樽小樽を築いた経済の先人の足跡をふり返ると、そこにはしょうにんとしてよりも人間として学ぶべき多くのものを感じとることができる。人柄からいってケチもいた、飲んべえもいた、女に目のない色道の大家もいた。だが今日まで名を遺した数多くの人々は、ただそれだけでなく余人にはない「何か」をもっていた。その「何か」が成功の因となっている。

 いかにマスの時代にはいり、個人の栄光が重要視されなくなったとはいえ、やはり〝人〟の質はよくなければならぬ。銘酒‶北の誉〟の籾谷専務は「多数精鋭主義」を主張する。優秀な個人を一人でも多く集めて、企業を共同作業で拡大させてゆくのが今日的な経営のありかただという。これからは〝豪商〟という名詞も消滅するかも知れぬ。

続・小樽豪商列伝(完)

月刊おたる

里舘 昇