南米航路を開設 犬上慶五郎

2022年07月12日

汽船十七隻で 造林-鉱山に手出す

『秒を追うごとに、金がザラザラはいってる』と、世人にいわしめた慶五郎は、滋賀の産。慶応元年三月、この世に生を受けた。

読み書きを寺子屋で手習い、若くして本道雄飛を決行、函館に渡って同港を出入りする船に鑑札を渡す鑑札役(現在の税関のような仕事)に従事、北見で海産業についたが」あきたらず、小樽に転じて久野回漕店にわらじをぬいだ。

 ときに十八歳、若さに似ずそのしっかりした仕事ぶりは、親方がすっかりほれ込み七年余りの奉公で、船を預けられるほどの抜てき、独立を許されて犬上船舶部をおこした。

 〝斗酒なお辞せず〟の酒豪。どんなに飲んでも酔った姿は絶対人に見せたことがないほど、神経が細やか。それでいて、間違ったことにはうるさく、人のめんどうをよく最後までみる太っ腹。どんなにおごってもあとがなく、仕事さえ終われば主従の間もなくして酒盛りをする親分ハダ。

 大正の半ば最も隆盛を極めたころには、大型船十七隻をフル運航、日本国内はもちろんのこと、樺太航路、上海航路、南米航路を開設、さらに合資会社を作って造林、製炭、鉱山業にも乗り出した。

 また千歳から美々方面にかけて二千二百ヘクタールの広大な所有地の真ん中に当時の八千七百万円を投じて北海道鉄道(現国鉄千歳線)を開設、今日の千歳は慶五郎あっての発展と、いまもなお千歳市史一㌻に大きく残されている。

 大正九年、多額納税者として貴族院議員に選ばれ、政友会内でも活躍、原敬首相とはじっ懇の間柄。来道の折には、慶五郎の別荘が必ず宿泊場所になるほどだった。

 自然に親しみ前夜どんな大酒を飲んでも庭いじりはかかさず、広い邸内をじっくり時間をかけて散歩。東雲町の高台に、古郷から多賀神社をうつして『水天宮』としていまも市民に親しまれている。とくに夏祭りは小樽三大祭りの一つに数えられ、慶五郎が寄進した祭り見越し、ダシが現在もそのまま市内の目抜きを練り歩いて、『犬上みこし』としてなじまれている。

北海タイムス

小樽経済

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