政界の大立て者 板谷順助

2023年01月26日

本道の農業立国訴える

 本道政界の大立て者で、昭和の初め衆議院議員として活躍した。

 『北海道は農業で生きるべきである』というのがこの人の持論で、日高、上川、雨竜地方に農業を経営、農業の指導機関である道農友会の会頭として当時の新聞紙上で盛んに農業立国を説いたという。

 明治十三年三月新潟県刈羽郡比角村の山田という家に生まれた。なかなかの秀才で、急性の中学校を卒業後慶應義塾に学んだ。板谷王国の初代板谷宮吉の母家が隣村にあって両親の知遇の中だった。宮吉の兄常吉に子供がなかったことから養子となった。当時の板谷家はすでに小樽にあって倉庫、船舶業で巨万の富を築いていただけに順助が迎えられたことは才幹の非凡さがうかがわれようというもの。

 順助もまた板谷合名の同族会社にはいり、二代目宮吉とともに社業を盛り立てた。勇払電灯、沙流電機、渡島海岸鉄道が次々に創設された。近代産業として電気と鉄道に着眼、惜しみなく巨費を投じた。

 しかしこれらも農業立国を土台にしていたもので第二次産業の輸送路の確立が目的だった。だから、機会あるごとに農業開発を訴えた。そしてみずからも胆振、日高地方に農業を開いた。なぜ農業で生きのびなければならないかという点については『北海道には広大な土地がある。しかも平野が多く、気候的に農業が最適だ。穀物とそれを加工したものを製造する。そこには必然的に殖産業が生まれ発展する。あくまでも農業が基礎だ』と力説していたという。

 政界に顔をだすようになったのもこのころで、当然といえるかもしれない。昭和二年室蘭の栗林五朔がなくなったあとの衆院補欠選挙に出馬して見事当選したがその後の総選挙でも圧倒的な支持を受けたといわれ、衆院では政友会本部常任幹事だったこともある。

 太っ腹で、人のめんどうをよくみた。先見の目と頭の切れることピカ一で、小樽のというよりも本道政、実業界の巨頭として残した功績は限りない。(敬称略)

北海タイムス

小樽経済

百年の百人⑬