小豆将軍の異名 高橋直治

2022年09月17日

雑穀で本道経済の一角

 雑穀にかけては本道に右に出る商人おらず〝小豆将軍〟の名をほしいままにし、本道経済の一角を成した。

 新潟は苅羽郡石地町に生まれたのが安政三年一月、生活的には困窮な境遇で志業を北海道の地に求めた。明治八年、十八歳のとき当時寒村に過ぎなかった小樽に渡り、荒物賞の店員になること丸三年、辛酸をなめながら、飽くなき研究心で精進、明治十一年には独立して有幌町に雑貨店を開業、すかさず米穀海産品の委託売買を営んだ。

 郷里から実弟喜蔵を呼んで協力、先を読む商才は天賦のようと評されたほど、常人に比べてはるかにすぐれていた。この後、ミソ、しょう油の醸造や石炭販売、蒸気機械精米所、回そう業など次々と新しい事業を起こし、その営業の発展はすばらしい勢いで伸び続けた。

 明治二十九年高橋合名会社にいち早く組織がえ、、ますます事業に力こぶをいれ、その後数多い各種事業を一切やめて、米、雑穀業一本に切り替え、ここで高橋小豆将軍が誕生する素地が作られたわけだ。

 直治は〝すべてに勝つ〟を、終生絶対的な身上にしていた。両親と早くに死別、おばあさんの手で育てられたが、いたずらが過ぎて文庫蔵に入れられこらしめられたときも「ばあちゃんがあやまるまで出てやらない」といって、とうとう反対にあやまらせたほどの負けずぎらい。

 『品物を苦にする商人は、ろくな商人にはなれない…』として、機を見ては敏感に買ういっぽう、性格正反対の喜蔵が売りいっぽうという全くの分業システム。『喜蔵あっての小豆将軍』といわれたほど、喜蔵は尽くした。

 事業の進展に伴って、公職は多くなり、有幌町などの総代理人をはじめ、三十二年小樽で初めて区政が敷かれるや、区会議員に選ばれ、小樽海産物産商組合長、小樽海産仲買組合長、小樽税務署管内所得調査委員長など、それは十指にあまった。

 立憲政友会に入党、明治三十五年には小樽区選出の衆議院議員を、ときの商業会議所会頭で、市内きっての人望家であった高野源之助と争い、見事本道の初代代議士となった。いらい連続三回、国民の代表となって政治にたずさわり経済ばかりでなく、政治家としての識見をも合わせもっていた。

 大正十二年、紺綬褒章を下賜、常に自ら率先して苦を求めた野人、高橋直治は、十五年二月七十歳の天寿を全うしたが、小樽の町づくりを真剣に考えていた先人でもある。

 

北海タイムス

小樽経済

百年の百人④

 

今年初めて植えました

実りました

来年は 小豆将軍 に、なれるかも…