弱冠32歳で会頭 山本厚三

2022年12月08日

学生時代は外交官志望

 大正四年、時の経済界の大立て者高橋直治と小樽商工会議所会頭の座を争った厚三は、一票の差で高橋直治を破った。弱冠三十二歳の会頭が小樽に誕生したのだった。

 山本本店は南浜町にあり、倉庫、船舶、漁業、農場の四部制が置かれてあった。当時南浜町は道内経済の中心地といえるほどの繁栄ぶりで、石川啄木は当時の模様を『街を歩くにも小さな落とし物よりデカイ物を拾わんと、一攫千金の野心に燃えて終日罵声を張り上げて突進している。このたくましい小樽人こそ明日の日本を造る気迫がある』と記述しているほどだ。

 この文章を代表するにふさわしいのが若き日の実業家山本厚三の姿ともいえる。

 小樽港を埋め立て運河をつくるときに厚三が属していた憲政会が河の幅を二十五間(四十五.三九㍍)を主張したのにたいし、政友会は二十間(三十六.三六㍍)を強調した。厚三は「小樽港百年の計をあやまってはいかん」とあくまでも憲政会の案を人々に語ったという。

 厚三のことを『性格きわめて強く、また頭はずばぬけて良かった」と松川中央バス社長は述懐するが、厚三は東京高商(現一橋大)時代は外交官をめざしていたらしい。ところが山本久右衛門という小樽の実業家に見込まれ養子に迎えられた。非凡な厚三は自らの能力をフルに発揮、倉庫、船舶、漁業、農業と本道屈指の会社につくり変えていったのは、まだ二十歳台のことだ。三十歳前半で実業界をリード、三十歳後半には代議士として国政に寄与するなど、その活躍ぶりはめざましいものがある。

 厚三は政界にでてからも常に地元北海道のために力を尽したが、とくに昭和四年鉄道省参与官となり『本道開発のためには鉄道、港湾の整備が必要である』と、持ち前の強い信念をむきだしに活躍した。昭和初期、本道のにしん漁業が衰退に向かったころ、漁業の合理化、共同出荷などによる対策を講じるためにしん合同会社の設立問題が盛り上がった。厚三は漁業家を救済するため奔走、これを創立させる大きな力となったことも忘れられない功績である。

 厚三は潔癖な人だったから代議士となっても政治献金は決して受け取らなかった。また政治家としても大物だった厚三が、大臣の声が高かったにもかかわらず、ついにその座につけなかったことは『大臣のいすを金で買わなかった』ためだといわれている。

北海タイムス

小樽経済 

百年の百人⑪