勤倹貯蓄よく働く 寿原英太郎

2022年12月15日

新知識で家業を拡張

 『人として生まれたからには死ぬまで働かなければいかん…無為徒食は絶体許されない』英太郎は口ぐせのようにいっていた。家のお勝手に達筆な字で『働かざるもの食うべからず』と書いたはり紙をして、それを自ら実行した。

 親類筋に当たり英太郎の養子となった九郎=現北洋相互銀行取締役社長=は『非常に物を大事にした。一銭でも粗末に使うことをきらい、勤倹貯蓄をいつもうるさくいわれた。玄米を栄養食だからといってよく食べさせられた。それでいてケチケチせずにこれというものには金を出した。また口やかましいカミナリオヤジだったが、おこってもすぐケロッと忘れる人だった。一面情け深く気持ちのあたたかいオヤジだった…』と養父の人柄をこう語っている。

 さらに続けて『なんでも、とことんこるタチで、若いころから書道をしていたが、これはプロ級の腕前にもなった。またこっとうもよく集めた。なにかわからないことがあるとよく百科事典をひっぱり出して調べた。こうした半面、お客がくるとよく騒ぎ、宴会でもよくユーモアにとんだ話をした。お酒はそれほど強くなくせいぜいちょうし一本ぐらいだったが、まず好きだった』九郎は英太郎の思い出をこうもいっている。また九郎夫人の秀子は『実子がなかったせいか、よく親類筋や友人の子弟を家に置いて学校などにかよわせた』と養父の一面を語っている。

 英太郎は明治十五年八月、富山県で寿原猪之吉の長男として生まれた。父猪之吉は北海道に望みをかけ明治二十二年小樽で小間物商売を始め成功、いわゆる寿原財閥の基礎を築いた人である。英太郎は石川県立一中から秀才コースの東京商高(現一橋大)を卒業猪之吉の死後家を継ぎ、合名組織の家業を寿原商事会社として業務拡張をしていった。

 東京、大阪、函館に支店を設けてメリヤス、仕立て物の製造販売又化粧品、石けんなどの卸しをした。さらに共成株式会社の取締役や小樽無尽会社の社長、寿原食品、寿原農場の役員となった。英太郎は当時の新知識をもって父猪之吉の家業を個人経営から会社経営に切り替え、発展へと導いていった。

 どちらかといえば事業家ハダで仕事が好きな人だった。家業の卸し業はどうもあまり性が合わない。国を富ますため生産か、貿易に手を出したいと常日ごろいっていた。そして米国や満州にも進出したりした。また、第二次大戦後米、雑穀販売の共成の会社を生産会社ににした。これは失敗に終わったが、英太郎の一面がうかがわれる。

 昭和五年市議になり、同七年から十一年まで代議士になった。おじ重太郎が道議だった影響を受けて政治への志捨てがたく立候補したわけだった。第二次大戦後、第一回民選市長となり、共産党との対決などもあって、くたびれたといって一期だけで市長をやめた。

 趣味は室生謡曲をよくし書道では『静雲』と号して一家の風をなした。昭和三十六年六月十七日、七十六歳で没した。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人⑮

 

寿原弥平司

寿原弥平次(長男)

寿原猪之吉(娘婿)→寿原英太郎→寿原九郎(養子)

寿原重太郎(三男)

 

ですね。