一代で豪商に 山田兵蔵

2023年01月17日

(兵蔵によって切り開かれた当時の山ノ上町=向かって右)

嘉永元年に名主役 銭函漁場開発の片腕

 小樽の開基百年に最も意義深い人である。嘉永元年穂足内村(いまの小樽)の名主役になり、この日から数えて市は開基百年としたいわば小樽の開祖ともいうべき人物。しかし残念ながら山田兵蔵についての史実は市にあまり残されていない。生まれは福山で商売を営み文化年代中期ごろ小樽に住み着いたといわれる。小樽では最初請負人岡田屋の支配人として腕をふるった。岡田は文政年間(一八一六年ごろ)に銭函などの漁場を開発したが、兵蔵はこの片腕ともいわれた。

 兵蔵は一代で小樽の豪商といわれた身代を築いた人だけに豪気なそしてきょう気ハダの一面をもっていた。小樽の初代名主として道路をつくったり、運河や町を切り開いたりした。いまでいう町づくりの元祖である。

 安政三年信香町三番地で呉服、瀬戸物、塗物のほか米、ミソ、荒物など日用百貨の物資を売る店を開き、このかたわら漁を営み、和船二隻を所有して近海や内地方面と交易した。こうして兵蔵は土着許可を得ていらい、持ち前の商売じょうずをいかんなく発揮した。

 兵蔵が切り開いた町は新地町、芝居町、土場町それに山之上町などがある。とくに山之上町は安政四年、当時の箱館奉行の命を受け、一千余坪の荒地を国恩に報じるためとして自費を投じて開墾した。さらに白米百石を幕府に献納して窮民の資に当て、備米の制度がここに初めて設けられた。貧民救済を率先して行なった篤志家でもあった。

 『小樽の人と名勝』(小樽出版協会昭和六年刊)によれば、兵蔵は『精勤村治の開発に努めむ。慶応元年金曇町奥沢村の畑地に道路を開墾また非常に用いるため、中央に掘り割りを掘り勝納川より分水工事をほどこし、その両側を宅地とした。明治三年開拓使は兵蔵の功績を賞して名字帯刀を免許これによりて山田の名字を名乗る。明治五年兵蔵病で歿す。その後養子吉兵衛が継ぎ、『兵蔵の遺志をいかして山田家の名声をたからしめた』とある。

 また兵蔵のことで忘れられないのは安政四年信香町に小樽初の質屋を開業したこと。これが質屋業の始まりであり、利息は月四分だった。いま兵蔵の縁につながる人は小樽pL教団に三代目の妻、真駒内の自衛隊に四代目の養子がいる。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人①

 

『今日はとても冷えたのですが、兵蔵の切り拓いた道をたどりたくて、兵蔵の遺志にふれたくて出かけました。』

山ノ上町

開運町から芝居町への道

金曇町から奥沢村へ(今は、赤井川村やキロロ、白樺ロードへとつながる道)

新地町の道も

勝納川の両側を宅地にしました

信香町に日用百貨の店をひらきました