水産業発展に 渡辺兵四郎

2023年01月19日

吉兵衛補佐し副会頭

 明治十四年ごろ、現物納めの水産税に道内の業者は立ち上がっていた。これは当時の水産税が他の税率に比べ高く、また納税方法が各地で違ったこともあったが、役人の検査を受け租税を納めないと生産物の販売ができないというところに商機を逸する業者の反対と軽減運動があったようだ。

 こんなとき井上外務大臣が来樽した。兵四郎は業者の要望を述べるとともに『物納を金納にしてほしい、また納税義務を、漁業家の代表者に任せるなら政府も手がはぶけると陳情した。これが口火となり税額はぐっと下がった。『およそ七十余万円を納めたる人民はいまより単におよそ二十万円の税を納むるに止まる』と當時の岩村長官は伊藤首相に贈った謝辞が残されているが、兵四郎の努力は水産業者にとって大きな貢献であった。

 さらに兵四郎はニシン漁に建網から角網を使用することを進んで試験投網し、これがいいとなると高島、小樽両郡をはじめ各地の漁業家に推奨するなど、常に同業の共存共栄のために力を与えていた。また小樽郡漁業協同組合を組織し、業界発展につくしたのも兵四郎だ。

 若いときから水産漁業関係はもとより町内、教育、火防、衛生関係などあらゆる公職についたが、明治三十年小樽商工会議所が設立したとき、初代会頭に主家の山田吉兵衛を指し、兵四郎は副会頭となって補佐、三代目会頭に就任小樽経済界の繁栄につくした。また同三十一年区会議員、さらに道議員から議長の座へ、代って衆議員になるなどその活躍は広い。同四十五年には五代目小樽区長となり、大正五年までその役を務めた。

 同四十四年八月皇太子さまから『今後とも国家のため、尽さんことを期する』ということばをいただいたなど、私欲をはなれ公務に励んだが、その反面、兵四郎は野性味のある人間だったといわれている。その天衣無縫の一例としての話だが、明治元年イギリス商船が入港したとき招かれた、初めての洋食をだされ、作法も知らない小樽商人たちは、ただ目を見合わせながめているばかり、ところが兵四郎だけは『皇国の興廃この一挙にあり』と心につぶやき、作法などおかまいなくタラ腹食べたといわれ、のちのちまで語り草となった。

 無一文から区長、会頭にまでなった兵四郎は、昭和七年五月、八十七歳の長寿をもって大往生を遂げた。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人②

 

8月24日から二泊

皇太子(のちの大正天皇)より、直接 ことばをいただいたのでしょう

 

『明治45年・大正元年から大正5年まで小樽区長を務めた兵四郎は小樽運河着工を決断したのでした。』

大正3年発行棟方虎夫『小樽』より

 

小樽は、夏に向ってまっしぐら

なのでやってきました

歩いて→泳いで→歩いて→泳いで を繰り返した後は、温泉に入ってサウナにも入ってきました

インフルエンザそしてコロナ対策はバッチリかな?