民衆の航路の開設 藤山要吉

2023年01月21日

藤山財閥の基礎を作る

 『商都小樽を語るには、藤山要吉なしにはあり得ない』といわれるほど、小樽の発展に尽くした藤山要吉は、嘉永四年七月、秋田は久保田本町、油製造業古谷多兵衛の二男として生を受けた。

 慶応三年、大政奉還のとき、十七歳で北海道雄飛を決行、松前に渡り、海鮮問屋田中武左衛門に身を寄せた。商業を見習い、同地の富豪と親交を深めて独学、本道の経済、産業にたいする情勢を学び、本道開発の将来性から小樽が最有望であるとして来樽、信香町の回船問屋藤山重蔵の要請で同家にはいり、海運業に従事した。 

 重蔵には実弟がいるのみで、こわれて藤山家の養子となり、明治十二年重蔵の他界で家督を相続、初めて独力で海運業に乗り出した。まず和船二隻を購入、奥羽、北陸、兵坂地方まで航路を伸ばした。さらに営業形態を改め、小樽港から北見沿岸各港との間に、地元民衆交通を主体とした航路を開いて定期船を運航、民衆の便宜を図った。明治三十一年以降には、和船から洗船に切り替え、十数隻の洋船で日本海沿岸諸港に航路を持ち神戸、下関、樺太などまで広げて日ソ両国の貿易品輸送と旅客の往来に活用した。とくに政府の命令航路として小樽―天塩線、小樽―函館線、函館-瀬棚線を開設、明治三十七年には、戦時御用船として就航、藤山財閥の基礎を作り上げた。

 また漁業の有望性に着眼、北見や稚内、紋別などニシン建て網二十六カ統、サケ建て網七カ統を経営、南樺太が日本領になったとき率先して進出、機械化漁業を盛り起こした。

 このほか開墾事業、牧場、林業、鉱業、工作事業、倉庫業、銀行経営、不動産業、海陸物産販売業など、あらゆる事業は逐年隆盛をきわめ藤山家の事業が小樽を発展させた一つの推進力となった。

 これら事業から得た利益は、惜しみなく社会事業に費やした。帝国大学や高専、専門、実業学校など、学資の貧しい生徒にたいせて学費を支給、育英奨学に努めたほか、貧困者には正月モチを贈って慰め、食に困る者には自宅を開放、毎朝同家に集まる者は四十人を下らなかったと伝えられている。

 『実業家としたす』を信念とし、代議士選挙や貴族院多額納税議員には、進められても固辞、事業の隆盛こそ郷土の恩恵によるとして、信じて疑わなかった。藍綬褒章、紺綬褒章を受賜、多年にわたるかずかずの善行、功績をたたえられた。昭和十三年十月、嘉永から安政、万延、文久、慶応、明治、大正、昭和の七代の歩んできた要吉翁は、大往生を遂げた。その遺徳を末永く残そうと、多くの市民が相集り銅像を建立、小樽のマチと港を一望に見おろせる市民会館前庭に今もなお光り輝いている。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人④

 

※嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和 九代のようです

そして、

今日も雪山が…