本道でも米を 石橋彦三郎

2023年01月23日

上川百万石の生みの親

 上川百万石の米産地の生みの親といっても過言でない。兄彦三郎の営んで居た呉服商を手伝っていたころから本道特産の大豆を生かすのはしょうゆと、兄の死亡後しょうゆ醸造を始め、東京、大阪方面へどんどん送り込み、かわりに米を輸入していた。本道でも米を量産しなければいけないと上川郡雨紛原野、夕張角田村などの未開地をどんどん開拓、畑地も水田に改良、米産地に変えたのだ。

 良い品物を売ることが、この人の信条で、ことしょうゆについてはみずから製品の改良と取組み『丸ヨ』の商標のしょうゆを作りあげ、青森、新潟はもちろん樺太にも代理店を設け販路を広げた。

 滋賀県彦根市出身、幼名は商捨次郎といった。幕末彦根藩が日高の沙流村に藩士を出したとき、そこのご用商人

 まじめ一方の人で、酒もあまりやらず、仕事一筋。しょうゆ造りを始めたころはふた月もの間、一日のうち半日は倉の中に閉じこもって、しょうゆのできあがるのを見守っていたというエピソードもある。

 最近どの企業も設備の近代化が叫ばれているが、設備の改善でこの人ほど努力した人もいないだろう。品質改良はいうにおよばず。徒弟制度をきらい、使用人には休日を与え、就業時間もきちんと定めていた。こうした実業の精励が認められてのちに緑綬勲章を得ている。

 社会奉仕も進んで行ない学校やお寺の建設にはポンと大金を投げ出す人だったそうだが、孫に当たる石橋忠彦さんは現在札幌市月寒の北央日産會社専務をしているが祖父彦三郎について『北海道で米を作るのに、秋田米は寒さに弱くて失敗し、品種改良して実らせるまでには相当苦労したそうです。それらの水田も小作農の方に分譲したとかで頭が下がります』と語っている。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人③

 

ニシン漁が

はじまりました

市場へ行った帰り道、カメラを持っている方が教えてくれました

黒いのが スズガモです

~スズガモは冬鳥として全国に飛来し、海水域に好んで生息します。名前の由来は飛んだ時の羽音が鈴の音に似ていることによるのだそうです。

白いのが ホオジロガモです

~日本には冬鳥として飛来し、北日本で多く見られます。「クー」や「クックッ」という声を出します。日中に潜水して貝類、カニ、エビ類などを食べています。

「だいぶ、少なくなってしまいました。」と。

 

そして、

海を渡って来たものがもう一つ

鯵のニボシ(ですね きっと)

ありがとうございました 酒がすすみます