仕事一筋の人 柴野仁吉郎

2023年01月25日

陰ひなたなく懸命に

 仁吉郎は明治二十年十月十日新潟県柏崎市荒浜で漁網製造業柴野仁十郎の長男としてうぶ声を上げた。

 仁吉郎は長男という重責から中学を出ると家業を継いだが、毎年暮れになると父が漁網の代金を集金するため、来道していたがとくに小樽沿岸は当時ニシンの千石場所として好景気にあふれていた。明治四十一年春仁吉郎が二十歳のとき、北海道で一旗上げようと父親が漁網の集金にきたさい、いっしょに来道、小樽で商売をしていた同郷人の柴野宇吉の経営する宮島商店にわらじをぬいだ。

 二年間宮島商店で蔭ひなたなく一生懸命主人につくしたため、板谷商船社長板谷宮吉の目にとまりぜひわが社にということで明治四十三年五月板谷商船の支配人として迎えられた。

 以来いつも社長を立て、いかなるときでも自分が表面に出るということはなく、板谷商船の縁の下の力持ち的存在で、小樽経済界の中でも有名であった。仁吉郎はいつも家庭内に於て口ぐせのように『家がこうして安易な生活を送っていられのも会社や社長があってのものだ』といって夜中でも会社に飛び出していった。

 性格としては短気な半面楽天家で人情味には厚かった。このような性格から職を失って困っている人などに会うと、職探しに奔走した。また仁吉郎は家のつごうで中学だけで、進学をあきらめたため教育には熱心で、貧困家庭の子息などに育英資金として大金を惜しげもなく投資した。

 仁吉郎は入社以来、昭和三十七年までの五十五年間、社の繁栄はもちろんのこと市の発展にも気をつかい、この間商工会議所議員、自民党小樽支部委員などをして中央との折衝に当たり小樽発展のため尽した。

 仁吉郎の直系の部下で板谷商船品川支配人は『大の忠義者でしかも仕事一筋の人でした。部下にきびしく、仕事のうえで、少しでも間違ったことをするとお目玉を食いました。その反面親分肌の人で、プライべーなことで相談にいくと、真剣に考えてアドバイスしてくれるといった人でした。柴野さんはほんとうに小樽を愛し市発展のためには、目に見えないところで尽していました』と仁吉郎の人がらをかたっている。

北海タイムス

小樽経済

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