いまの協会病院 慈恵病院を築く 初代 早川両三

2023年05月12日

情愛深い苦労人

 明治三十五年秋のこと、夜両三宅に電話を借りにきた近所の娘さんが、電話のそばで泣いているのを両三が気付き、家の者に事情を聞かせた。その娘さん、父親が病気で寝ていたが、急に病状が悪化したため医者の来診を頼んだが薬代も払えないことを知っている医師に往診をことわられ、困り果てているという。

 それはたいへんと両三がお金を出して石にみせたが、生活の苦しい人たちが自由にみてもらえる病院をつくらなければいけないと友人たちに呼びかけ、当時できたばかりだった共成施養所にかけあい、両三たちの集めた資金で施設を拡張、名も施養所と改め生活に困る人たちの病院にした。この病院がのちの慈恵病院であり、今の協会病院。

 両三は新潟市上島生まれ、旧家に育ったが、自分の力を試そうと立身出世を夢見て、渡道を決意、函館に渡った。古書によるとその後は放浪生活を続けて小樽にきたとあるが、これは間違いで、実際にはあり金はたいて呉服を仕入れ、それを売りながら小樽にきたのだという。

 孫にあたる早川昇は現在昭和高校、海員学校講師などをしているが『祖父は函館から放浪生活を続けていたというふうに語り伝えられている。しかしおばあさんたちの話では行商を市ながら小樽にきたようで、祖父の書にも行商は初めてで、はずかしいために人が見えなくなると反物はいらんかね…と大声をあげたと書いている。慈恵病院に入院した人があると、ふとんを持ってこい、マクラを持ってこいとずいぶん運ばせたと聞いている。苦労した人ですから他人の苦しみや悩みを見てだまっていられない人だったのでしょう』と語っている。

 小樽では回そう店につとめ、たくわえた資本を元に荒物の店を開き、その後精米所を経営した。製油会社も営んで、道内では初めて麻油を製造した。またしょうゆの醸造にも手を伸ばした。 

 慈善家で困っている人には金品を恵み、火災の多いのをみかねて消防ポンプ車の購入に奔走したこともある。区会議員としても町の発展に尽くした。

北海タイムス

小樽経済

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