其水堂印刷所を創立 塩野喜作

2023年04月25日

組合の結成にも奔走

 現在奥沢村二ノ三四にある桑山其水堂印刷所の創立者。喜作は元治元年山梨県平等村に生まれた。村役場の書記にあきたらず明治二十三年八月、二十一歳のときに来樽、キト旅館の客引きとして住み込んだ。その後名取金物店に移ったが、同店で新聞を扱っていたので、新聞配達などをした。

 そして四年間にためた資金を基に、北海タイムスの販売店を開くいっぽう文房具の販売と印刷業に手を伸ばした。最初は色内町に店を構えたが、銀行からぜひとたのまれて土地を売り、妙見川のそばに移った。その土地を売った資金で工場を拡張、新しい機械を導入した。当時市内に印刷会社は一軒しかなく、日清戦争が始まると注文が殺到、印刷一本にしぼった。そして印刷技術の向上を図るため小樽高商の活字科担当講師松井源吾氏の指導を受けた。 

 印刷組合の結成にも奔走、組合長に選ばれた。その後商業会議所議員、連合衛生組合長として町づくりに貢献したが、真狩村に開拓団としてはいっていた山梨県の人たちが、成果が上がらず困窮していることを聞くと現地におもむいて、食料や衣類を贈り、励ますとともに岩内方面に肥えた農耕地をさがし、そこに移らせた。

 これらは成功後の足跡だが、若いころの喜作は人を押しのけても自分の目的を達成するという人だったという。其水堂印刷を継いでいる桑山喜好は『悪い意味じゃなしに、道路に倒れている人がいてもかわいそうだと思うなというぐらいきつい人でした。成功してからはずいぶん変わって商業会議所議員や衛生組合長などをして人のために尽した』と話している。

 昭和四年、印刷組合の組合長をしていたころ『印刷文化展覧会』という珍しい催しを開いた。徳川時代に始められたという木版や石版、それに外国の印刷機などを集めて開いた。これが評判になって道内各地から展覧会の開催を要請されたという。最近こうした催しをみないだけに当時としては相当珍しい展覧会だったようだ。

 俳句をよくし、『其水』と号した社名の其水もそこからとったもので、立志伝中の一人に上げられている。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人⑦

 

小樽実業談話会と小樽倶楽部、色内町店飾り 1 

塩野喜作

1864~没年不詳 甲斐国平等村(現山梨市)出身、当初大沢姓、役場書記から志を立て1890来樽、中川清兵衛(札幌ビール技師)が経営の旅館で忠勤したのち新聞販売店、次いで印刷業(兼紙文具商)に進出、1899塩野其水堂と称し色内1に工場を設置し移転、1907印刷組合を起こし組合長、実業談話会では小樽倶楽部の建設・維持に尽力.小樽衛生組合長として1915衛生展、1917広告博を開き、1929道内各地で印刷文化展を開催.社名は俳号其水から.(『小樽の人と名勝』(1931)356~359頁.「資性温厚にして謙譲、常に衒輝を避けて寧ろ少数者の知遇を楽しむの人なり.然れども公事に対しては飽迄奮闘.初志を貫徹するにあらざれば止むざるの士」と『小樽便覧』(1913)292~293頁にある.

※小樽実業談話会設立 立役者の一人でした。