鑄鉄工場を設立 七代目 清水孫四郎

2023年08月23日

漁具政策で地歩築く

 七代目孫四郎は心が暖かく、ヨミの深い人ハダの人だった。

 安政五年新潟県西蒲原郡燕町字上町で金物相を営んでいた『上田屋』六代目孫四郎の長男として生まれた。清水家は代々燕町で、特産品の和釘(くぎ)を主体とした金物類の販売をしていた。ところが明治二十年緊縮政策のあおりで、清水家は代々主業として営んできた和釘、鑢(やすり)の製造販売が当時普及してきた洋釘や器具に押されてきた。こうしたとき六代目孫四郎がポックリ死んだ。

 孫四郎は三十歳で七代目を継いだが、店の経営は苦しかった。このまま燕町にいても店は伸びようもない。そこでいぜんから北海道にとくい先があったことと、弟の弥助が同郷の札幌の陶磁器問屋長谷川家に奉公していたことから、北海道に身近なものを感じ、これからの再建は北海道と決めこんだ。

 明治二十年父の死去後間もなく渡道、札幌と小樽の立地条件をくわしく調べた。その結果小樽は港町であり、商業に向いていることがわかった。そこで翌二十一年色内町九番地に金物店と鉄工所を開いたわけだ。孫四郎には二人の弟があり兄弟力を合わせて家名の再興に努力した。その上上田屋時代から使用人のめんどうをよくみていたため、孫四郎が渡道してからも、清水家を慕っていぜんの使用人がはるばる来樽、こうして金物店と鉄工所の店員、工員が同郷人でガッチリ固められた。

この間苦労は孫四郎の身にまとわりついたが、屈することなく努力を続けとくい先も漁業者を中心に岩内から天塩にかけて大勢できた。初めのうちは新顔で同業者との戦いはなかなか容易ではなかったが、孫四郎の強味になったのは他業者と違って漁具の製作につい鉄工所を持っているということだった。

 とくに錨(いかり)、鎖、船釘などは、品質技術の優秀な点でとくい先から歓迎された。錨は他店ではまねのできないとくいな製品として定評があった。苦労のかいがあり孫四郎は明治四十年一月一日、ついに資本金二万円で、合名会社を設立、新しい一歩を踏み出した。

 この間、金物店はじめ、清水救漕部、小樽鋳鉄会社の設立など小樽の経済に尽した。しかし合名会社設立の喜びにひたるひまもなく明治四十年病にたおれ、第一線からしりぞく、静養に努めたが、大正五年の夏腎臓病を併発して同年十二月五十七歳を持って波乱に富んだ一生を閉じた。

北海タイムス

小樽経済

百年の百人⑧