ニシン漁に君臨 白鳥永作

2023年02月08日

祝津 ‶ご三家〟の一人

 青山留吉、茨木与八郎、白鳥永作の三人を祝津町の人たちは‶ご三家〟と呼ぶ。ニシンの大網元で明治、大正、昭和にかけて栄えた家。漁のことから町のもろもろまで、この三人が集まらなければ何事も決らなかった。そこから‶ご三家〟と呼ばれるようになったという。

 永作の出生地やなぜ祝津にやってきたかについて知る人がいなくはっきりしないが、新潟あたりから祝津のニシン場に出かせぎ衆としてきたものらしい。永作には一人の子供があったが、成人すると学校の先生になり、ニシン小屋の解体中に腕を切断、これがもとで若くして没した。その長男坊が現在は函館に住んでいるらしいが、その詳細も知れない。

 永作が網元として君臨したのは明治の末期。当時の祝津浜には二十数個統のニシン漁場があった。個統というのはいわゆる漁場を区割りしたもので、永作は五、六個統を持っていた。ここから水揚げされるニシンは一日に百万貫、キロに直すと三百七十五万キログラムまったく想像もつかないぐらいの漁獲量だったという。

 ニシン漁は三月の初めから五月の中旬ぐらいまでつづく、その間青森、新潟、秋田方面から出かせぎにくるやん衆は三百、四百人、道内からの人を含めると一千人からの人が集まり、永作は二百人ほどを使っていた。やん衆のひと月の給与が三、四十円で、使用人に支払う一シーズンの賃金が一日の水揚げでじゅうぶん間に合うというのだから驚きだ。

 このように永作は一代にして巨万の富を築いたが、町のことについてはご三家のなかでも一番熱心だった。水不足で子供たちが学校で水が飲めないと聞くと、学校の裏山に水たま場を掘り、そこから管を敷いて水を運んだ。現在のような水道のないときだけに、子供たちの喜びはひとしおだった。

 また小学校の建築に大金を寄付したり、学校のご聖影奉置所を設置した。北祝津町五九の伊藤恒太郎(七二)は『ニシン大臣といわれた人ですよ、温厚で学校や道路などの建設にはずいぶんつくされた』と語っている。永作がやん衆たちに使用させていた飯場はいまもそのまま食堂花屋支店として祝津水族館前の駐車場かどで市民のいこいの場となっている。丸太を組み合わせた造り、にじんだ油、しみついたススの匂いが永作の隆盛のおも影を忍ばせている。

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大漁に水揚げがあったニシン漁の現場(写真提供:よいち水産博物館)

明治30年 100万㌧ちかく獲れていました

近年、石狩湾系ニシンの漁獲高が増えています

石狩湾を中心とする地域はもともとニシン漁が盛んなところであり、ニシン復活を望む声が強かったこの為1996年から12年にわたって、ニシン資源を増やすために北海道の主導で「日本海ニシン資源増大プロジェクト」が実施された。このプロジェクトの目玉となったのが、人工授精で育てた稚魚を放流する事業であり、この親魚として石狩湾系ニシンが使われたのだ。…

 

では、どういう原因で石狩湾のニシン資源が増えてきたのだろう?

 

 北海道の水産資源研究をリードする地方独立独立行政法人北海道立総合研究機構(以下、道総研)では、石狩湾ニシンが増えている背景に、「卓越年級群」の存在があると推測している。

「卓越年級群」というと難しく聞こえるが、簡単に言えば、何らかの要因がうまく重なって多く生き残った同世代の魚のことと思えばいい。こうした卓越年級群が親になると、当然、その子供世代の数も多くなる。環境が悪化しなければ、孫世代、ひ孫世代と生存数は多いまま引き継がれていく。水産資源は、極端に大きな卓越年級群ができることが引き金となって、資源量そのものが一気に増える可能性があると言われているのだ。

 

~Discaver Japann 未来コトハジメ

「幻の魚」ニシンが復活!?北海道で漁獲じわりと増加 21世紀のニシン漁の行方(前編)~ホームページより

 

午前中は雪

『今日の漁は無いのかな。と思っていましたが…午後から出漁のようです。』

『明日も市場へ、行ってみようかな。』