方向転換 その3

2023年03月24日

浦添城跡~13世紀に築かれた大規模なグスク(城)で、中山が浦添に拠点を置いていた頃の居城といわれています。14世紀には高麗系瓦ぶきの正殿を中心に、石積み城壁で囲まれた堂々たるお城であり、後の首里城の原型ともいえる存在です。北側は急な崖となっており、太平洋戦争の沖縄戦時には日米両軍の激しい攻防が展開されました。日本軍には「前田高地」と呼ばれ、映画「ハクソ―・リッジ」の舞台ともなったことで知られています。

首里以前の中山王の居城で中部支配の拠点

 

ゆいレールを浦添前田駅で降り、てくてく 歩くこと30分

ようやく たどり着きました

 

02 STORY 貿易立国として繁栄を極めた琉球王国

 15世紀初期、本島南部の佐敷グスクを居城としていた尚巴志は、当時の中山王・武寧を滅ぼして父・尚思紹を中山王とし、王都を浦添から首里に移しました。その後、尚巴志は北山と南山も滅ぼして三山を統一。これによって以後450年続く琉球王国が成立しました。

 その表玄関の那覇港は、日本や中国、東南アジアとの交易の拠点となって琉球王国の発展を支えていました。首里城正殿に掛けられていた「バンコク津梁の鐘」には琉球国は南海の恵まれた地域に立地し、(中略)船を操って万国の架け橋となり、外国の珍しい日なものや宝物が国中に満ち溢れている」という文言が刻まれ、海外との交易を通じて繁栄していたことがわかります。

 また、14世紀の終わり頃、琉球王府は中国との貿易を発展させるため、中国から通訳や航海技術者を琉球に送るよう、明王朝に要請します。これを受けて中国から閺人(びんじん)三十六姓と呼ばれる人々がやってきました。彼らは現在の那覇市久米、当時の久米村(くにんだ)に住み、中国などと外交に大きく貢献したほか、琉球の政治や経済、文化、さらには食に至るまで様々な影響を与えました。

 今も琉球料理には欠かせない豚の飼育法や豆腐の製法のはか、清明祭やそこで供されるウサンミ(豚や鳥、魚の料理)は久米村から王府に伝わり、それが一般家庭に広がったといわれています。那覇港周辺には航海安全を祈願した天妃宮跡や久米村600年記念碑などの史跡や石碑が多く残されており、往時の痕跡を見ることができます。

 

浦添ようどれ~浦添城北西側の断崖にある王の墓です。向かって右の西室が英祖王(在位1260~1299)、左の東室が琉球王国第二尚氏第七代国王尚寧王(在位1589~1620)とその一族が葬られているとされています。「ようどれ」とは本来「夕凪」のことで、静かで穏やかなことから墓の意味に用いられたといわれます。

牧港方面と東シナ海

『このあたりが、沖縄戦時、激しい攻防がなされた場所です。』

 

『せっかくだから、浦添城から首里城まで歩いて行こうっ。(徒歩で一時間半ぐらいだそうです。)』

 

『首里城へ行く道はこの道で良いですか?』

「そうですよ、まっすぐ行くと大きな道に出ますから、その道を歩いてください。…。」

『ありがとうございます。』

(歩いていると、雨が降り出してきました…。~今回の沖縄旅行で唯一の雨でした。

(一向に止みそうにありません。仕方なくバスで、首里城まで向かうことに…。)

『おっ、すぐ、来るぞ。☻』

(バス停で待つこと、5分…8分…10分…。)

『沖縄は車社会だから、混雑しているのかな~。時刻表が違っているのかな~。沖縄では、どれぐらい遅れるのが普通なんだろう?』

(などと考えながら、10分…、12分、13分…。)

『しょうがない、濡れながら、ゆいレールの浦添前田駅まで戻ろう。』

(バス停をあきらめ、50mほどゆいレール方面へ、歩いていくと…。)

『あっ、🚌が、バスが、ばすが~…。バスが来た~。』

(バス停には、誰もいませんから、あっさり通り過ぎていきました。)

 

『まっ、こんな日もあるさ。😢』