方向転換~メイン⑤

2023年04月08日

泊港に置いてありました よし 行こう

慶良間諸島は2014年3月5日(サンゴの日)日本国内で31番目に国立公園に指定され、今年9周年を迎えます。同年、「チームけらま』は慶良間諸島の環境保護と魅力のさらなる発信を目的に発足しました。今年も「チームけらま」を合言葉に全島でビーチクリーンを実施します。今年は、島の魅力を体験いただくメニューもご用意しています。ぜひともご参加ください。

開催場所は4か所ありましたが 『渡嘉敷島 阿波連ビーチ と 座間味島 古座間味ビーチ は行ったので…』

フェリーの到着時刻と活動時間を考えて…

阿嘉島 北浜(ニシバチ)ビーチに 行くことにしました

 

阿嘉新港から歩くこと約20分

すでにビーチクリーン活動は始まっていました

漂着した大きな漁網を引いていた3人の方に加わりました。

「一人増えただけでもだいぶ違うねぇ。」

「せぇのっ…、せぇのっ…、せぇのっ……。」4人で引っ張り、ちょっとずつ進みます。

そして、何とか目的地へ…。

ここから(砂浜から)、上の駐車場まで引き上げます。

『こりゃ、大変すぎるぞっ。』と思っていたら、さらに助っ人が一人加わり、五人で引き上げました。(ゼーゼーゼ―)

こちら側の砂浜では、たくさんの方がビニールごみやガラス、プラスチックごみなどのほか、軽石(確か噴火で大量に発生し、港が埋め尽くされた場所もありましたよね)を拾い、無事終了。

 

拾っている途中に、

「昨日、ケラマジカ、見ましたよ』、クジラを見るコツは…。や 島でおいしい昼食を売っている店など、いろいろ教えてくださった地元の方。

「友達の車で帰ります。よかったら、一緒に帰りましょう。』と、

阿嘉新港まで送ってくれました 『ありがとうございました。』

 

重要文化財に指定された「高良家」は、沖縄民家の原型をとどめた昔ながらの建物。赤瓦の屋根と美しい石垣が印象的。先代は唐船の船頭であったといわれ、船頭殿ともよばれています。(慶留間)

慶留間島にある高良住宅を目指しましたが、

『足が…。足が…。』くたびれてきました。(慶留間島のよびかたは、「げるまじま」 です、ず~と、「けらまじま」だと思っていました)

 

途中、

マルレ秘匿壕跡

特攻艇「マルレ」が隠されていた壕跡地。米軍艦艇を特攻攻撃するための秘密兵器として、島内に点在する秘匿壕に格納されていました。ベニヤ板製の特攻艇は通称「マルレ」とよばれ、船幅1.8m、艦長5.6m、重量1200キログラムの半滑走型ボートで120キロクラムの爆雷2個を搭載していました。

 

『美しく豊かな村に、数多く残された戦争の跡。忘れてはいけない「平和のありがたさ」を感じ、守り、未来につなぐ。」

 

慶良間諸島米軍侵攻について

当時、沖縄本島への進行を予想した日本軍は、米軍を背後から奇襲するために慶良間の島々に約200邸のマルレ(海上特攻艇)を配備しました。これに対し、米軍は沖縄本島上陸作戦の前に補給基地として慶良間諸島の制圧を開始。1945年3月23日、数百の艦艇による砲爆撃の後に上陸し、圧倒的な戦闘力の差を以ってわずか数日で島々を占拠しました。

シジヤマ(スギヤマ)敵艦に備えて多くの島民が逃げ込んだ避難場所。阿嘉住民のシジヤマ生活は5か月にも及びました。

座間味村は、1945年3月26日から始まった沖縄戦において、米軍が最初に上陸した地となり、多くの尊い命が奪われました。村内には当時の住民が避難した防空壕(ガマ)や、御霊をまつる慰霊碑など、沖縄戦の記憶を伝える戦跡が多く現存しています。座間味村ではこれらの保存と紹介を通し、より多くの皆さんが平和について学び、感じ、考える場となれるよう取り組んでいます。

集団自決の碑

座間味村の村長、助役、収入役、役場の職員とその家族59名が産業組合壕の中で集団自決したとされる地です。

 

座間味村戦跡地マップ および 座間味村戦跡地ガイド より