物語をつむぐ町 蜂谷 涼 

2023年07月01日

蜂谷 涼(はちやりょう)

1961年小樽市生まれ。90年「銀の針」で読売ヒューマン・ドキュメンタリー大賞カネボウスペシャル佳作。地元北海道を中心にテレビ・ラジオ出演や講演、舞台劇の原作者として多方面に活躍しながら執筆活動を行う。主な著書に「へび女房」「舞灯篭」「螢火」「てけれっつのぱ」「雪えくぼ」「夢の浮橋」「はだか嫁」など。最新刊は初のエッセイ集「おネエさまの秘め事」。2008年劇団文化座により舞台化された「てけれっつのぱ」は文化庁芸術祭賞演劇部門の大賞を受賞。小樽ふれあい観光大使も務める。

 

豪商と職人の心意気

私はこれまで五作ほど、明治から大正にかけての小樽を舞台にした小説を刊行した。いずれも長編、または中編の連作集だ。一地方都市を舞台にしたのがよほど珍しいのか、インタビューなどでは必ず、「小樽のことをこんなに書いてきて、題材が尽きないものですか」と訊かれてしまう。そんなときの答えは、こう決まっている。

「もちろん、尽きませんよ。何しろ、小樽という町は、物語の種の宝庫なのですから」と。

 小樽は、幸運にも、ほとんど戦災にあわず、不運にも、高度経済成長の波に乗り切れずに「斜陽の町」と呼ばれた。皮肉なことに、その幸運と不運があいまって、明治・大正の息吹を現代に伝える要因となったのだ。

 周知の通り、明治後期から第二次大戦までの小樽は、東京以北最大とまで称えられる商都だった。そのハイカラな港町を闊歩していたであろう豪商たちの逸話は、今もなお、数多く語る継がれている。

 

海運業で富を築いた板谷商船の創始者、板谷宮吉の旧邸宅にある蔵。私邸に二階建ての蔵を構えるほどの栄華を極めた

 

 大抵の場合、筆頭にあげられるのは、「小豆将軍」の異名を取った高橋直治だ。幼少期に両親を亡くした高橋は、酒蔵に奉公にだされたのが災いしてか、十七歳までの間に三度も祖母から勘当される大酒呑みに育ってしまった。十九歳にして、新婚の妻・よねとともに生地・越後を離れて小樽へ。夫婦して廻船商に丁稚奉公したのち、海陸産物・雑貨商を開く。その後は、米穀・海産物委託販売、味噌醤油醸造、精米、回漕業、印刷業などと商いを広げる傍ら、小樽商会(商工会議所の前身)取締役、米穀株式ほか五品取引所理事長、小樽区議会議員、小樽海陸産物組合長等々の公職を歴任し、第七回(北海道では第一回)衆議院議員に当選する。実は、ここまでは、豪商として名を遺す小樽商人の典型的なサクセス・ストーリーでしかない。ところが、多くの豪商と同様に努力と才能でのし上がってきた高橋には、さらに「まれにみる幸運」という後ろ盾がついていたのだ。

 明治三十五年、代議士として上京した高橋直治は、日露関係の悪化を見て小豆の需要を察知し、北海道産の小豆のほぼすべてにあたる八万俵を買い占める。その年の暮れから翌年にかけて独占相場を吊り上げ、「赤いダイヤ」となった小豆を売るさばいたのみならず、その利益を鰊漁場に投じたところ、有史以来の大漁に恵まれ、「黄色いダイヤ」の数の子や鰊粕で莫大な富を得た。一説には、その額、二十万円。当時、東京の最高地価が、日本橋で一坪二十九円五十五銭八厘だったとのことだから、高橋の得た富は、まさに巨万だったといえよう。彼の強運は、大正の御世となってもまだ続く。第一次世界大戦だ。食糧不足に陥った英国からの連日の注文は、またしても小豆を買い付けて機会を狙っていた高橋の独占相場となり、「小豆将軍」の面目躍如といったところだった。

 いったいに越後衆は、地味で、木綿しか着ない倹約家が多かったそうだが、高橋はいつも、熨斗目つきの羽織袴だった上に、当時の商人の倣いだった黒足袋ではなく、白足袋を着けてりゅうとしたいでたちだったという。邸内には小豆の俵で土俵を作り、相撲の勧進元をつとめていたとか。港を見下ろす高台の屋敷で、JAPANと刻印された小豆俵を満載にした船が異国へ旅立つのを見送る胸中は、どのようなものだったのだろうか。

旧 寿原邸

「小豆将軍」の異名をとった豪商・高橋直治が大正元年に建築したとされる屋敷。昭和に入ると所有者は寿原外吉となり、昭和61年に寿原家から市に寄贈された冬期間をのぞいて一般公開されているが、建物の高低さに特徴があり、その高低さから生まれる変化に富んだ庭の眺望がすばらしい。

 

 「すべてに勝つ」が信条で豪腕だったともいわれる高橋直治と兄弟分の契りを結んでいたのが、初代・板谷宮吉だ。同じ越後の出身ながら、彼らの気質は正反対だったと聞く。気質もそうなら、運もまた同様で、彼は、明治十八年、二十年と立て続けに大火で被災し、二十六年に五〇〇tの英国船を買い入れて新潟諸港と小樽の間に定期航路を拓くまでは、苦難の道のりを歩んだようだ。その後は、倉庫業の開始、海運業の拡大に伴って、阪神・ハワイ航路を持つ板谷商船設立、大連に板谷洋行、樺太に樺太銀行設立と、華僑ならぬ「樽僑」の名をほしいままにする。ただし、彼はあくまでも地道な努力家だった。

 「酒も煙草もやらず、芝居見物もしない。唯一の趣味は札を数えること。二階に座敷牢を設け、深夜に畳に札を並べて後ずさりしながら数えていくうちに、はしご段から転がり落ちたが、札は手から離さなかった」などという言い伝えは、おそらく嫉妬まじりの流言蜚語だろう。日露戦争に供出した船が撃沈されて、多額の補償金と勲六等瑞宝章を受けてからも、朝四時には起床し、夜十一時まで働いていたという彼は、余人には及びもつかない「粉骨砕身の商人」だったのだと私は思う。

 初代の薫陶を受けた二代目・板谷宮吉は、旧制市立小樽中学校を寄贈したのを初め、小樽の発展に尽くした人だ。貴族院議員、小樽名誉市長などを務めた二代目の建てた豪壮な屋敷は、高橋直治邸に程近い場所にある。初代が築いた板谷商船が、明治、大正、昭和、平成と時代の荒波を乗り越えて、現在も小樽の地にあることを、港町の一市民として誇らずにはいられない。

板谷邸

旧板谷邸の屋敷は「海宝樓」という名でかつて一般公開されていた。この辺りは小樽の街並みがや港を見渡せる絶好の位置にあり、事業で成功した実業家たちの邸宅が数多く建てられていた。現在は蔵も含めて一般公開されておらず、工事中のため関係者以外の立ち入りは認められていない

 二代目・板谷宮吉に限らず、財を成し、高い地位についた人が、ステータスに見合った社会貢献をした例は、他にも多々ある。つまり、ノーブレス・オブリージだ。小樽高商(現・小樽商大)の土地も、有力者たちが寄附したものだし、小樽警察署の新築工事に際しても、市民有志の寄附がずいぶんと集まった。そのような中でも特筆すべきは、小樽区公会堂(現・小樽市公会堂)ではなかろうか。

小樽市公会堂

明治44年、大正天皇が皇太子時代に北海道を訪れるのに合わせ、建築費用は海運業者が全額負担したというのだから豪快な話。当時の小樽商人の羽振りのよさには驚かされる

 そもそもこの建物は、明治四十四年にときの皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の北海道行啓に際しての御旅館として建てられた。新築費用の三万円を寄附したのは、藤山要吉。東京吉原では、「蝦夷の大尽」と呼ばれるくらいの豪遊を重ねた男だ。

 秋田生まれの藤山は、福山の回船問屋で修業を積んだ後におたるへやって来た。和船二隻を購入して小樽と北陸を結んだのを皮切りに、小樽と稚内にも定期航路を結んで北海道海運のパイオニアとなる。海運業を伸ばしながらも、北陸から開拓民を招いて深川、増毛間に三〇〇町歩の農場、牧場を開墾し、のちには留萌本線の駅名にその名を残した。日露戦争の終結後には、北陸、下関、神戸、大阪、樺太にまで航路を広げる一方、日本領となった南樺太に漁場を作り、樺太の日本海沿岸の土地のほとんどを手に入れた。「板谷は大型、藤山は小型」と海運業を住み分けながら、大正期は樺太木材の積み取りで大もうけし、どうやってカネを使うのか思案したほどだという。ほかにも、自身が経営する船舶用の鉄工所で考案した、鰊の沖揚機がヒット商品となり、十数棟の石造倉庫を建立して倉庫業界に君臨するなど、その活躍には目を見張るばかりだ。書画、骨董を愛し、「以寧」の雅号を持った藤山要吉は、おいてもなお眼光鋭く、勝気な顔をしていた。「大型の板谷」が「粉骨砕身の商人」ならば、「小型の藤山」は「戦い続ける商人」だったのかもしれない。

加藤忠五郎

おたる公会堂、日本銀行小樽支店など、小樽を代表する名建築を多数手がけ、「大虎」と呼ばれた建築請負人

 ところで、皇太子嘉仁親王の御旅館建築にあたり、腕をふるったのは、小樽の建築請負人「大虎」の加藤忠五郎である。施工の依頼を受けた加藤は、東京の宮内省に足を運んで技師に相談した上で、この大仕事に取り掛かった。唐破風の車寄せ、謁見用の本館、三の間まである御殿、壮麗で気品あふれるこの建物は、竣工から九十四年を経た今も、凛とした姿を見せている。たぐいまれな建築職人・加藤忠五郎の仕事は、これにとどまらない。現存するものだけを数え上げても、前述した板谷邸を始め、旧北海道銀行本店(現・北海道中央バス株式会社)、住吉神社社務所、旧百十三銀行小樽支店、屋根の上に鯱を載せた岩永時計店、絵巻物から飛び出したような竜宮閣唐門、、小樽の新しい人気スポットとしてにぎわう日本銀行旧小樽支店(この施工は下請け)等々が遺されている。加藤忠五郎こそ、現在の小樽の歴史的町並みを形作った最大の功労者と呼んで差し支えないだろう。「大虎」の名にふさわしい偉業を成し遂げたものだ。

 

「大虎」と呼ばれた男 加藤忠五郎の名建築

岩永時計店

明治28年創業の時計店としてこの場所で100年以上の歴史を重ねてきた。6月1日からはは小樽オルゴール堂の堺町店として新しく時を刻むことになる。(岩永時計店は支店と統合して営業を継続)

日本銀行旧小樽支店

「北のウォール街」と呼ばれる明治から昭和初期にかけての小樽の繁栄を支えた歴史的建造物。現在は「金融資料館」として一般公開されている(10月31日までは外壁等改修工事のため部分公開のみ)

龍宮閣唐門

オタモイ龍宮閣の竣工に合わせて建設された唐門。基礎をアーチでくり抜いた形は、龍宮城の門を連想させる。

 

その「大虎」の陰に寄り添うようにして、公会堂の裏手にひっそりとたたずむ建物がある。

 能舞台だ。国立能楽堂のそれよりも格式が高いとされるそれは、元々、米、雑穀、荒物、倉庫業などを営む岡崎謙の自邸に造られた。東京高商の学生時代に、加賀前田家のお抱え能楽師に学んだ岡崎は、出身地の佐渡から神代杉を始めとする銘木を取り寄せ、同時に呼び寄せた腕利きの職人に銘木を挽かせた上に、第十七代狩野乗信を小樽に呼んで鏡板を描かせた。岡崎家の邸内にあったときには、一流の能楽師がたびたび訪れ、、招かれた人々は最高の芸を堪能したという。

能舞台

黒瓦の大きな屋根を持つ、この豪勢な建物に能舞台が移築され、公会堂として市民行事に利用されているというのだから、なんとも贅沢。やはり小樽という街はタダモノではない

 小樽を象徴する文化遺産とも呼ぶべきのこ能舞台を活用すべく、2009年から「あたる遊玄夜会」が開催されている。これは、私が書き下した原作に、日本でも指折りの作曲家がオリジナル曲をつけ、実力派の俳優の一人芝居に札幌交響楽団の精鋭メンバーが生演奏するという、他に類をみないユニークな能舞台公演だ。能に知識がない方々にも楽しんでいただけるよう工夫を凝らした新作は、今年も8月17日から19日の3日間にわたって上演される。

 話を本題に戻そう。

 岡崎が故郷から呼び寄せた職人の技を小樽の職人に伝えたように、父祖の地の伝統を遺した豪商がいる。北の誉酒造株式会社の二代目・野口喜一郎だ。

 加賀の農家の四男として生まれた初代の野口吉次郎が、小樽にたどり着いて醤油販売を営み、酒造業へと進出するまでの苦労を書くには、単行本一冊ぶんにも値する枚数を要するので、ここでは喜一郎が建設した「和光荘」に焦点をあてたい。和光荘は、大正十一年に、北の誉の工場群を見下ろす丘の上に建てられた。大正という時代を象徴するような和洋折衷の壮麗な建物だ。土地の高低差を利用した四階建ての玄関は二階にあり、そのポーチは石のアーチが連なって支えている。白亜の格子が織り成す繊細な外観、陽光にきらめくステンドグラスやモザイクタイル、芸術的な細工が施された和室の欄間や襖の引手、クリスタルガラスのシャンデリア……。そのモダンさには、いくらハイカラ慣れをした港町の人々でも、驚きをかくせなかったに違いない。

眼下に北の誉酒造の工場を見下ろす高台の斜面に建つ。ツタのはう石貼りの一階と白塗りの二、三階の対比が美しい

重厚な会議室。家具類も大正当時のまま残っている。商用や会議で使われた。大正の生活文化の宝庫である

建物の細部に至るまで意匠がこらされている。階段の親柱はアール・デコ風だ

50畳の広い仏間へ続く渡り廊下。斜めの階段は階上の廊下と平行に造られている

モダンな外観の裏手には日本庭園が広がっている。自然の傾斜中に和風のたたずまいが連なる

彩光に工夫したアール・デコ様式の窓枠

照明にも贅が尽くされ、細部にわたって意匠が施されている

 また昭和六年増築の総合湾ヒノキ造りの仏間棟には、釘が一本も使われていないとか。さらに、本館二階からこの仏間棟へ続く渡り廊下の階段部分の窓が、階段の勾配と同じ平行四辺形となっているのが、特に目を引く。施工にあたっては、加賀の職人や京都の宮大工を呼び寄せたとのことだが、仏間にも、本館の和室にも、父祖の地・加賀藩の色・紅殻色が使われているのが、二代目の心意気を現わしているようにみえる。

 和光荘の基本設計をしたのは、野口喜一郎本人。助言をしたのは、建築家・佐立忠雄。この佐立忠雄という人は、小樽唯一の国の重要文化財である旧日本郵船(株)小樽支店を設計した佐立七次郎の子息だ。日本近代建築の四天王の一人、佐立七次郎の息子と、「北の誉は野口の誉」と称えられる家業を興した野口吉次郎の息子。二人の二代目が手を携えて造り出したの遺産に、因縁めいたのを感じるのは私だけだろうか。

 もちろん、野口喜一郎も、小樽商人として数々の社会貢献をした。スキーを始めとするスポーツや母校への支援、若手芸術家の育成など、枚挙に暇がないほどだ。

 ほかにもまだまだ魅力的な商人や職人はいて、とてもここでは書ききれない。そのことからしても、小樽の町の奥深さというものを察していただけるのではないだろうか。

 冒頭に記したように、小樽は、ほとんど戦災にあわず、高度経済成長の波に乗り切れなかったおかげで、歴史的建造物が数多く残されている。それは、とりもなおさず、かつてそれらを生み出した豪商たちがおり、その要求に応えうる職人たちがこの地に生きていたということだ。

 こうして与えられた文化的な近代遺産を大切に保持しつつ、様々な形で活用していく、それこそ、今を生きる私たちがすべき先人への恩返しなのではなかろうか。

 

参考資料 

●北海道新聞社刊 小樽再生フォーラム編「小樽の建築訪問」

●北海道建築士会創立五十周年記念「和光荘」

 

 

HO ほ         もうひとつの小樽

2012 7月号 Vol.56 

発行 ぷらんとマガジン社 より

 

『加藤忠五郎氏の親族の方が、小樽へやってきてくれます。さあ、どんな料理を…どんな案内を…。とても楽しみです。』

 

~2023.6.26